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みたもの記録

【読書記録】『フィフティ・ピープル』

※これは今年8月に書いて別場所にアップしたテキストの再構成版。感想の類はこちらにまとめた方がしっくりきそうだなと思ったたため、上げ直し。

 

はじめに

亜紀書房 - となりの国のものがたり1 フィフティ・ピープル

最初にこの本を知ったのは、去年、韓国関連書籍を専門に扱う書店を訪れたときだった。当時店内にいたのは自分ひとり。それもあってか、スタッフの方が話しかけて来てくれて、しばし会話が盛り上がった。なぜここを知ったのか、今何に興味があるのか。「韓国のミュージカル熱いですよ!」と話をされたのも覚えている(今ならモーツァルトの話をするのに…!)。

 

するとスタッフさん、おすすめの本を紹介してくれるという。その中の一冊がこの『フィフティ・ピープル』だった。紹介されてもちろん興味は湧いた。だけどその時は、小説というより、エッセイやフェミニズム入門的な本を探していたため、買うに至らず。表紙も可愛いし、登場人物が50人という群像劇スタイルにも惹かれたし、読み始めたら絶対面白いに違いない。だから何となく、頭の隅にはずっとあった。


時は過ぎて、今年の6月。よく行く書店でふと思い立ち探してみると、ちょうど1冊棚に収まっているのを発見。これはラッキーと思い、買うことにした。ここ数年、本を最後まで読めた試しがないけど大丈夫かなと、本の厚みにやや不安を覚えながらも読み始め、気づいたらページをめくる手が止まらなくなっていた。

 


あらすじ

「この物語集は、韓国の首都圏のどこかにある大学病院にまつわる人々のお話を集めたもの」(訳者あとがきより)

と、まさにこの通りなのだけど、単に病院内でのやり取りかと言われると、そうじゃないところがこの作品の面白さなんだろうと思う。病院を訪れる患者もいれば、そこに務める医師や看護師、インターンの学生など、いろんな立場の人が出てくる。そしてさらに、患者の付き添いの友人の視点、インターンの学生の視点、救急で運び込まれてきた少女の友達の視点…など、どの話も少しずつ誰かの物語と重なり合っていて、誰かの物語の脇役だったり、キーパーソンだったと後で分かったり、通り過ぎたあの人はもしかして…?と振り返ってみたりと、書籍説明にもあるように、まさに“50人のドラマがあやとりのように絡まり合う”仕組みになっている。 

 


心地よい文体

タイトルのとおり、登場人物は50人(数え方によると諸説?あり)。一人のエピソードにつき5〜6ページくらいの、短い物語をつなぎあわせたような構成になっていて、「連作短編小説集」とのこと。おかげで、始めからサクサク読めたのは大きかった。


ところで、読書にはある程度の勢いとテンポが必要なんじゃないかと個人的には思う。というのも、自分の場合は話の面白さもそうだけれど、文体がハマらないとなかなか先に進もうという気が起きない。その点、この本は本当に気持ちよく読めた。チョン・セランというこの作家の特徴なのか、それとも訳し方なのか、そのあたりはまだ何とも言えないものの、長々とした比喩表現やまわりくどさがなく、それでいて登場人物たちにあわせた口調や感情表現は隅々まで丁寧で、豊かだなと感じた。その豊かさが、惹かれたポイントの一つかもしれない。

 

 


余韻の味わい深さ

これも唸った点の一つで、各エピソードの完成度がすごい。たった5、6ページほどの中に、派手ではないけれど惹きつけられるようなドラマが詰まっていて、現在を描いていたり、ときには過去に思いを馳せたり、未来を予感していたりする。簡潔な導入も小気味良いし、それ以上に話の終わりがどのエピソードもなんとも言えない余韻を残して終わるのもたまらない。

 

ちなみに、この余韻の点でのお気に入りは、「キム・ヒョッキン」、「イ・ホ」、「キム・インジ、オ・スジ、パク・ヒョンジ」、「キム・ハンナ」、「チ・ヨンジ」このあたり。2周目を読んだらまた変わってきそう。あと、けっこうドキッとするような一言がいろんなところに散りばめられていて、それが説教臭くないのがまた良い。

 

「いちばん軽蔑すべきものも人間、いちばん愛すべきものも人間。その乖離の中で一生、生きていくだろう」

(「イ・ソラ」P311 より)

 

「しょせん私たちは飛び石なんです。だからやれるところまでだけ、やればいいんです。後悔しないように」

(「ソ・ヒョンジェ」P450 より)※一連の文章より一部抜粋


この2つは特に響いた。ここだけ抜き出すとだいぶ印象が違ってみえるかもしれないけれど、そこが面白いところ。各話読み応えがあるし、シリアスだったり、ふふっと笑えるシーンもけっこうあるから構えずに読める。

 

 


隣人と連帯(と、長めの雑感)

あとがきによると、「50人の登場人物たちの誰かに、自分を重ね合わせてもらえたら」というのが、著者の思いの一つらしい。皆それぞれ歩んできた人生があり、抱えている不安や悩みがあり、ひとりとして同じ人はいないけれども、“今、ここ”に居合わせたことは事実。街ですれ違うだけ、一瞬ふれあうだけ、この先一生出会わない人なんて山程いる。そんな人たちの人生が少しずつ少しずつ作用し合って、この社会の空気がつくられているんじゃないか。だから、きっと本質的なところでは、完全なる他人ではないのかもしれない。何かが違えば、出会うはずだった人。友達や恋人になってたかもしれない人。そういう「かもしれない」も、自分の人生にはあったんだ、これからもきっとあるんだ。そう思うと、目の前の出会いや、周囲の人たちとの関係がより一層大事に思えてくる。読み終わって、そんな物語だなと感じた。

 

これもまた、あとがきで知ったこと。フィフティ・ピープルには韓国社会で起きたさまざまな事件・事故が、各エピソードに反映されているらしい。ある章については、2014年に起きた「セウォル号沈没事故」を想起させる、と訳者は書いている。この前見た映画『はちどり』でも、1994年に起きた「ソンス大橋崩落事故」が重要な場面で描かれているし、韓国のカルチャーでは、実際の出来事がいかに社会や市民に影響を与えたか、ということを真摯に見つめることが一つのテーマになっているのかもしれないと、最近(本当に最近ではあるけど)考えるようになった。もちろん、これは韓国に限ったことではなく、日本も、また他のアジアや欧米諸国だって、自分たちの歩みを顧みて、何かしらのかたちで言及したり、表現したりしているとは思う。日本においては、東日本大震災以前・以降で語られることが多々あるように。

 

そうして韓国社会に起きた事件・事故は、これまでの世代が後回しにしてきた結果だとして、あらためて見直そう、向き合おうという動きが活発になっているとのこと。その一つが昨今のフェミニズム運動だったりもするんだろう。これもまた、はちどりにも描かれていたように、「次の世代に何を残すことができるか」「何を断ち切ることができるか」という点は、今回読んだフィフティ・ピープルにも共通するものがあるように感じたし、さらに言えば、やっぱり韓国カルチャー全体に通底するテーマの一つなのかもしれない。それはしばしば、“連帯”という言葉で表現されていたりもする。

 

完全に自分の話になるけれど、正直今までは、生まれ育った日本にしか考えが及ばなかった。というか想像しづらかったし、できなかった。どうやって、行ったことも見たこともない国のことを考えればいいんだろう。興味はあるけれど、そもそも深く考える必要があるんだろうか。だって、私はこの国から(きっと)出ないんだし、と内心ずっと思ってきたようなところがある。

 

でも違った。想像できないんじゃなくて、しようとしてなかっただけだった。2020年、世界が同じ状況になってみてはじめて、自分が置かれている状況をもっと客観的に見てみたい、見なきゃだめだ、と思うようになり、同時に、ほかの国のことを同じ地点から眺めるきっかけが生まれた。そういう流れのなかで、隣国の韓国に興味を持った。以前から気になっていたことが、一気に爆発したのかもしれない。


隣国を知ることは、自分の足もとを見つめることにもなるはず。だから今は、とにかく興味の赴くままに見て、読んで、受け取ろう。今回の休暇は特に大きな予定もなく過ぎ去ろうとしてるけど、時間を気にせず考えることができたのは収穫だったし、何かしら今後の種まきにもなった気がする。まもなく20代が終わろうというタイミング、そして2020年。失うものばかりではなかったと、あとで思えるようにしたい。

【舞台】ベイジルタウンの女神

9月26日 世田谷パブリックシアター

 

観劇再開は8月の歌舞伎から。そのあとまた少し空いて、ストレートプレイはこのベイジルタウンの女神が最初になった。

 

ケラさんの舞台は、2年前に再演版の「百年の秘密」を観て以来、なるべく逃さないようにしている。といっても多作の方なのですべてをチェックすることはなかなか難しいけれど、今回の「ケムリ研究室」は緒川たまきさんとの新たなプロジェクト。行かない理由がなかった。あとは何といっても、松下洸平さん久々の舞台出演。昨年「木の上の軍隊」ではじめてお目にかかってから、半年くらいの間にスカーレットがあり、一躍時の人となった松下さん。しばらくは舞台には出ないかも、と思ってたから、この知らせには驚いたし、うれしかった。

 

ケラさんご本人も書いていたけど、今作は「キネマと恋人」の雰囲気に近く、笑えて感動して、ハッピーエンドな作品。ただその中にも、貧困問題、格差社会が描かれていて度々ハッとさせられた。「搾取する側」と「搾取される側」の関係性があっという間に入れ替わることで突きつけられる現実。演劇はいつだって“今”を映す鏡のようなものだなと思うけれど、今回もまたそんなことを考えた。映像や素早いモーションを駆使したケラワールドは相変わらずポップでおしゃれで、たとえ重めのテーマを織り込んでいたとしても観客の負担になりすぎないというか、するすると世界観に入り込めるのが良いなと個人的には思う。

 

「キネマと恋人」の一途なヒロインがとっても可愛らしかった緒川たまきさん、今回は大企業の社長であり、世間知らずのお嬢様という役どころがあまりにもマッチしていて、終始キュンとしてしまった。ほんとうにすてきだった。そんな緒川さん演じるマーガレットと、かつてマーガレットのお屋敷に雇われていて、現在は自ら会社経営者となっているタチアナとの友情もかなり作品の軸になっていて、後半の展開はなかなか感動的だった。タチアナ役は高田聖子さん。あまりこういう役をやっているイメージがなかったんだけど、実直で少し不器用で、マーガレットとの過去の思い出にどうしても執着してしまう姿がもどかしくも愛おしかった。芸達者なお二人だから、次第に昔の関係性を取り戻していく過程がすごく説得力があったし、こっちまでホロリとしてしまった。

 

出演者も豪華で、仲村トオルさん(昨年の「終わりのない」ぶり)、水野美紀さん(スカーレット組がふたり!)の兄妹もいいキャラだったし、温水洋一さんと犬山イヌコさんの腐れ縁みたいな関係性も、みんな愛が詰まってて良かった。あとやっぱり言っておきたい、松下さん演じるヤングと、吉岡里帆ちゃん演じるスージーの初々しい恋模様ね…。いや、まさかあんなストレートな愛の告白シーンを目の前で(席がほんとに近かった笑)見るとは思わなくてこっちが照れちゃったよね…。ヤングが意を決して好きと叫んだあと、スージーも負けじと「私も!」って返すんだけど、そのあと何度か「いや俺のほうが」「いや私のほうが」みたいになるの可愛すぎた。そして何度目かのヤングの「好きだ」に押されたスージーが「…降参っ!」て手をあげるんですよね、もうね、あれは吉岡里帆ちゃんの真骨頂なのではないかと。一言で老若男女を射止めてしまう力。多分あれ見てた人たち皆、「こちらが降参ですよ」と思ったことでしょう。

 

そして改めて、ヤング役の松下洸平さんについて。スカーレットの十代田八郎のインパクトが強いだけに、おそらく誠実で温厚なキャラクターが今後続くのではと少し思っているのだけど(タラレバとかリモラブもそんな気がしている)、今回のヤングは生命力に溢れた直情的なキャラクターで、このタイミングで演じる役としては意外だなとも思った。ただ、前回見た「木の上の軍隊」の兵隊役は生きるためにもがく役どころだったから、久々にそういう真っ直ぐな姿を全身で演じる松下さんを見て、何よりご本人がすごく楽しんで演じてるんだろうな、というのが伝わってきて嬉しくなった。走り方とか、勢いがすごかったもんな(笑)思わず「隠しきれない身体能力…!」と心の中で叫んだほど。一方で、絶妙な表情の変化や、感情が噴出するような台詞まわし、目線、動き、そういう繊細な芝居が似合う(得意な)役者なんだろうなとも思った。今回はその逆をいくようなキャラクターで、それが愛おしさにもつながるのだけど、パンフで「コメディの経験がないから課題」と言ってて、いろいろ試行錯誤したんだろうなと。新たな一面を見られたことへの感謝と、まだ見ぬ次回作への期待を抱いた。

 

一つ気になったのが、山内圭哉さんが2役演じる「ハットン」のうちの、ベイジルタウンに住む「水道のハットン」。双子の兄弟で、一方は昔から悪さをしてきて、未だに懲りない悪党。もう一方はそんな兄(弟?)から暴力を受け、名前を聞くとひどく怯えてしまうような、おそらく自閉症の男性。いつも水道の蛇口を持っていて、ひたすら水道の歴史を独り言のように話し続けているようなキャラクターだから「水道のハットン」。役の作り込みがすごくて、出てきた瞬間のインパクトも強かったから客席がどっと湧いたのもこのハットンが出てきたとき。自分も笑ってたけど、その笑いってどこから来てるのかと考えると、多分、水道の話を延々と話し続けるようすや、不思議な動き、会話が成立しない感じとかなんだよな、と。それを芝居(=明確な意図)でもって笑いに変えることへの違和感が後からこみ上げてきて、どうしても気になった。今までだったら気にならなかっただろうか。観劇それ自体は、まずは“受け取る”体験であって、その上でいろんな気付きや、新たな感情が生まれてくると思うのだけど、そのなかで無意識のうちに何かに加担してしまっていないか。ある人にとっては居心地よくないものなのではないか。と、少し立ち止まってみるなどした。正解がない世界ではあるけれど、自分がその日そのとき感じたことには、素直に向き合う方が良いだろうから。

【舞台】ミュージカル「モーツァルト!」韓国公演(配信) 

 

今年の目標の一つは、〈韓国にミュージカルを観に行くこと〉だった。きっかけは年始に観劇したミュージカル「フランケンシュタイン」で、もともと韓国発のこの作品、日本では再演ということもあって事前情報が豊富だった。日生劇場に通った1月は、韓国版のサントラが移動中のBGMだった。そんなふうに少しずつ“韓ミュ”の魅力を知る機会が増えていき、ついには「現地で観たい!よし、まずはパスポート取ろう!」と、けっこう本気で計画を立て始めていた矢先。あっという間にそれが難しい世の中になってしまった。

  

「韓ミュが観たい!」から出発した、2020年韓国カルチャーの旅は、この半年くらいで次から次へと行き先を変えながら、現在進行形で今も続いている。世間の波に乗って、もれなく愛の不時着にもハマったし、韓国文学への熱がより高まったし、あらためて、映画における表現が豊かな国だなと実感してる(前記事で書いた「はちどり」は相変わらずアツい)。

inmylife181.hatenablog.com

 

その流れで「あとはK-POPにハマるだけだ〜」なんて言ってたら、今やBTSにすっかり頭まで浸かってしまっているという、目まぐるしさ。というか自分で立てたフラグを回収しただけとも言う。思った以上に楽しい。

 

この休み中も、まずはBTSの映像を見る時間にあてよう、そして読みかけの本を完走して、あたらしい本を読み始めようかと思っていた。そしたら、ツイッターを流れてゆく「『モーツァルト!』韓国公演ライブ配信」の文字。

natalie.mu

でも、これを目にした瞬間はすぐチケットを買おう!とはならなかったんだよな…今思うと。いろんな舞台やライブの配信を購入したものの、一度も見れずにアーカイブ期間終了、なんていうアホみたいなことを1度2度…いや、3度くらいやっちゃってたから、自分は配信を買わないほうがいい人間なんだ、という気持ちになりかけてた。

 

そして昨日、8月9日深夜。

ツイッター見ながらふと思い立って、なぜか急に「韓国版モーツァルト、見ない手はないんじゃ…?」という気持ちが湧いてきた。ほんとになんでか分からないけれど(笑)家にいるタイミングで、しかもちゃんと日本語字幕付きで視聴できる。韓ミュ初心者(というか観てすらいない)な自分にとっては、「こんなラッキーなことはないかも」と思い、ひとまずキャストとスケジュールを検索。

3人並んだビジュアルを眺めて、なんとなくピンときた人がパク・ガンヒョンさんという俳優さんだと知る。どうやら、モーツァルト初出演らしい。ライジングスター(今勢いのある若手的な意味)とも呼ばれているらしい。え、エリザベートでルキーニ演じてたの?何それ気になる。でも他2人も知りたいし、まずは歌声聴いてみよう。

そして出てきたのがこれ。

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「影を逃れて」!!!!歌、めちゃうま……(当たり前)しかもレコーディングと稽古のようす…!なんておいしい映像なんだ!と興奮してしまった。実はモーツァルト日本公演すら、過去チケット争奪戦に破れて観れておらず。なので楽曲だけやたら聴いてるみたいな状態。歌声もビジュアルも好きな雰囲気だなと思い、ここはいっちょガンヒョンさんのヴォルフで“はじめてのモーツァルト”を体験するか、と深夜1:47にポチった。

 

「僕こそ音楽」(公開稽古的な?)

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「愛していれば分かり合える」(最初のコンスタンツェ連呼がかわいい笑)

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主演3人によるティーザー映像

youtu.be

 

 

いよいよここからが感想。前置き長かった。

前述したように、モーツァルトは一度も(映像でも)鑑賞したことがないもので、日本版との比較や細かい演出の話は一切できないのだけど、そんな超初心者に韓国版M!はどう映ったのか、という話をしてみます。と言ってもほぼキャストの話だけど…笑

 

まず、ガンヒョンさんのヴォルフガング、好みど真ん中だった。開始早々に「あ、これはやられた」とあっけなく降参した。具体的に言うと、1つ目に歌声。事前のMVやミニコンサートの映像でもいい声だなぁと思っていたけれど、芝居のなかで聴いても、実に気持ちよく通る声…!聴き心地がよくて、すっと馴染む。素人知識で感覚的な話しかできないけど、ロングトーンやビブラートもきれいで、でもパワフルさもあってグッと迫ってくる感じがたまらなかった。

そして2つ目に、実際見てみないと分からなかったお芝居。これが一番クリーンヒットしたというか…演技がナチュラルで、感情がどんどん乗っていくのが客席までダイレクトに伝わってくるような、個人的にとても好きなタイプのお芝居だった。表情の作り方もすごく良くて、父親に認めてもらいたい、愛情がほしい、となっているときの表情がたまらなかった。ヴォルフガングは後半こそ、孤独と戦い、命を削ってもがき苦しむ、そんなつらいシーンがつづくけど、前半の破天荒で自信家で、自由を求めて突っ走る若き青年の姿、ここが弾けてると余計に後半が際立つなと感じて。そのまぶしい無垢な青年としてのヴォルフを、ガンヒョンさんはすごく魅力的に演じているなぁ、と思った。登場シーンから超かわいいんだこれが。うろちょろしてて子どもみたい(笑)コンスタンツェとの出会いのシーンも天を仰ぐレベルでかわいかった……。そういう初々しさ、みずみずしさみたいなものが、もしかしたら今回初出演というのもあってうまく発揮できたのかな。こうなってくるとやっぱり他お二人も見たくなる。ウンテさん、ジュンスさん、それぞれキャラクターが全然違うと聞いて、3回券を買えたらベストだったなぁ(1公演が6,000円、3公演パッケージが9,500円て、よく分からない値段設定…笑

 

その他、思いついたことをざっと書き出すと、コンスタンツェ(見た回はキム・ヨンジさん)の強さもかなり好きだった。「ダンスはやめられない」は何度聴いてもしびれる。シャンパンのところ好き。そういや、子ヴォルフは基本あんなに出ずっぱりなんです…?日本版もそうなのかな。最後の最後まで重要な役割を担ってるんだな、と思わず感心した。あと、舞台セット!これキャストが見どころで挙げてたけれど、動く動く。上下するし、階段状にもなるし、立体感があって視界が飽きなかった。おまけにテンポがよく感じた。どんどん場面が変わる。これも共通?それとも今回の新演出だったりするのかな。とはいえ、じっくり魅せるところは魅せるし、空間大きく使って孤独を強調しているような場面もあって、おもしろかった。何度か観れば、注目する箇所がまた変わってくるんだろうな。

 

 

やっとモーツァルトを観れた、そして配信というかたちではあるけど、韓国ミュージカルに触れることができて、満足感・充実感がすごい。ありがたい機会だった。思い立ってチケット買って良かったな。映像が途中かなり途切れてしまって、いいところで止まったのもあって、そこだけもどかしかったけど…でもこればかりは、この作品に限らず難しい問題なんでしょう。カメラワークがとても良かっただけに、あぁ惜しい!ってなってしまった。ほんと、カメラの角度はいろいろこだわっているんだろうなと。総じて見応えがあった。

 

最後に、カーテンコールで目撃したやつを。

「黄金の星」(星から降る金)をキャスト全員で歌って、この時点で微笑ましくて感動的だったんだけども。幕が下りるギリギリのところで、ガンヒョンさんが子役ちゃんと並んで地面に顔つけるくらいの位置で手を振ってて、「かわいいな〜」と頬を緩ませてたら、最後の一瞬、腹ばいになった状態から両手で投げキスを無邪気に放ってきて、「!!!??ガンヒョンし〜〜〜!!!!!」となりました。あれは構えてないと(いや構えてても)うっかりときめいてしまうやつ…チャーミングにも程がある…ッ!

そんな彼のヴォルフガングが初見で良かった。と、たった一回の視聴ではあるけれど、これだけ楽しませてもらったので、心からそう思う。もう自分のなかでの基準がガンヒョンヴォルフです。今度はぜひとも、韓国でミュージカルが観れたらな。そう思いながら、買ったばかりの韓国語のテキストに取り掛かろうと思います。まだまだこの熱は冷めそうにないので。

 

 

【映画】はちどり

3月後半に劇団☆新感線「偽義経冥界歌」を観てから今日まで、劇場には足を運んでいない。配信で作品を見る機会は少しずつ増えてきたけれど、それでもまだ生身?の観劇は先になりそうな気がする。

 

こんな具合で劇場はまだ遠いけど、映画館には行ってきた。LINE Payシネマウィークということで1200円@TOHOシネマズ日比谷(スクリーン13)。いやー、安い。前後左右1席ずつ空けるのもはじめてだったけど、特に問題なくスムーズに鑑賞できた。これ、席を空けてるから早い段階で△表示になるのかな?午前中に15時20分の回を買ったけど、もう△か!と思ってちょっと焦った。購入画面にいったらまだ取りたい席も残ってたし、そんなに気にしなくてもいいのかも。と言いつつも、今回(金曜午後)はかなり満席だった。ユーロスペースの状況も気になるな。

ということで、久々に映画に浸って余韻がすごいので書いてみます。

 

キム・ボラ監督「はちどり」

 

ここ1カ月、Netflixで「愛の不時着」を見て例に漏れずハマり、その後なぜか韓国文学(翻訳本)に流れ、韓国カルチャーが興味の中心を占めるようになったタイミングで見ないわけにはいかなかった。

 

具体的に惹かれたポイントを挙げると、監督は1981年生まれで、自分と同年代と言ってもいい年代の女性である点。これが初の長編作品という点。少女の思春期を切り取った作品(と予想)。主にこんな感じ。ツイッターでおすすめしてる人たちの声を見ると、どうやら昨今の韓国カルチャーに通ずるフェミニズムの要素や、家父長制の話なども文脈としてありそうだなとは予感しつつ、ストーリーはあまり調べずに見たから、結果としてしっくりきたのは良かったというか、腑に落ちた。

 

※以下、ネタバレあり。

 

舞台は1994年の韓国・ソウル。90年代が韓国にとってどういう時代だったのか、何が起きて、人びとはどんなことを感じていのか、そういう時代背景はほとんど頭には入っていなかったけれど、2時間20分の映画を見ることで、当時の空気を吸い込んだ感覚になった。それは決して清々しいものではなく、どこか重たく、暗く、くるしいような。それこそ、中学2年生の少女ウニが見ていた世界の空気であり、感じていた窮屈さや孤独だったのかもしれない。

 

この映画、劇的な展開はほぼない。ドキッとするような描写も、目を覆いたくなるようなシーンもなく、終始淡々と進んでいく。何か意味があるのかな、と思うような場面でも、次の瞬間には別の場面に切り替わっていて、あとで言及があるかと思って少し頭の隅に置いておくも、全く触れられなかったりする。これはけっこう不思議な感覚だった。「意味ありげなシーン」に慣れすぎているのかもしれない。もしくは、つい勘ぐって深読みしようと画面を見つめることが、“映画を観る”ことになってしまっている、そんな気がした。最初は捉えどころがないなとも思ったけれど、日常の断片は無意味なようでいて、少しずつつながっている。意味の有る無しではなく、もっと感覚的に、無意識下でささやかに作用し合っている。本人すらも知らないうちに。

 

一応、まったく何もないわけではないのだ。ウニの母親の兄、つまりウニにとってはおじさんが前触れなく訪問してきたと思ったら、後日亡くなったという知らせを受けて家族で葬儀に出る、とか。ウニが他校の彼氏と他愛ない時間を過ごしていたら、彼氏の母親が現れて、手を引っ張って帰って行ってしまう、とか。いずれも唐突で、あっけない。何か説明があるわけでもない。でもそのあっけなさが日常で、急に現れ、急に去ってゆく、その繰り返しを通して日々いろんなことを考えているであろう、ウニに想いを馳せる。感情移入をするというより、ウニの生活があるその時代の雰囲気を大きく感じとる、という方が近いかもしれない。

 

あと触れておきたいのが、ウニが通う漢文塾で出会うヨンジ先生。30代前半くらいの女性。ウニが心を開き、懐いていくこの先生に、わたしもすっかり魅入ってしまった。窓際でタバコをくゆらせる登場、あれは良かったな〜。ときめくね。中学2年生の多感な少女との距離の取り方が絶妙で、これはウニがヨンジ先生のことを信頼できるひととして認識するのも分かるし、もっと知りたい、もっと話したい、ってなるのも分かる。それまで家族ですら自分に興味を示してくれなかったのに、「この人は違うんだ。私とちゃんと向き合ってくれる大人なんだ」と気づく。それが見てるこちらとしてもうれしかった。ヨンジ先生と出会えて良かったね、ウニ!って。

 

でも、映画の後半で先生はいなくなる。突然塾を辞め、そのあと決定的なことが起こる。劇的な展開はない、と書いたけど、1994年に実際に起きた「ソンス大橋崩落事故」が社会に大きな影響を与えた(というのをパンフレットから知った)一方で、ひとりの少女にも間違いなく衝撃と喪失感を与えることになった。この展開自体は映画のなかの話だけど、でも当時、ソウルでこの事故は本当に起きていて、現実とリンクする部分もあるんだろう。そう思うと、やり切れなさが募った。隣の国のことだけど、知らないことはこのほかにもたくさんあって、知らなければそれで終わるけど、本当にいいんだろうか?と、見終わった今、少しずつ考えている。

 

それだけじゃなく、希望も受け取った。ヨンジとウニのやり取りはすべて好きだけど、特に、入院しているウニを訪ねてきたヨンジが、ふと真面目な顔で「誰かに殴られたら立ち向かって。黙っていてはダメ」と話す場面が好きだった。そのあと姿を消してしまうヨンジ。でもこのとき確かに、ウニにバトンを渡したんだな、と思えた。長い人生を歩んでいくであろうウニが、この先いつか立ち止まったとき、孤独を感じたとき、寄り添ってくれる言葉がある。それは救いだな、と思う。救いであってくれ、という祈りにも近い。ここにもやはり当時の時代背景が絡んでくるようだけど、ヨンジが自分の世代で実現しようとしたこと、でも叶わなかったこと、感じてきたこと、そういうものが14歳のウニ(そしてきっと、ウニだけではない)に手渡されたことで、何かが変わるかもしれない。手渡す時点では未来は分からないけれど、手渡すことが大事だよ、ということ。そういうのを感じ取って、私も励まされた気がした。誰か一人にでも自分のメッセージを伝えることで、つながるものがある。逆に、断ち切れるものもある。94年に中2のウニは、ちょうど「82年生まれ、キム・ジヨン」と同じ年代ということになるらしい。それもあって、このはちどりという作品が今支持されていることも納得できる。

 

できれば、もう一度映画館で観たい。ウニのまなざしを通して考えたいことがたくさんある。

 

【舞台】弟兄 -ゆうめい

3月14日(土)こまばアゴラ劇場

 

劇団ゆうめいの過去3作品を上演するという企画「ゆうめいの座標軸」のうち、いちばん気になっていた「弟兄(おととい)」。チケットは完売していたけれど、追加公演のおかげで観ることができた。

 

この弟兄は、ゆうめい主宰の池田亮さんご自身が学生時代に受けたいじめをもとに作品化したもの。……という、ここまでの情報しか知らなかったから、ハードでセンシティブな作品かと思いきや、意外にも笑いを織り交ぜていておどろいた。秀逸なコントのような場面が多々あって、何度も笑いが起きていた。もちろん、壮絶な実体験ということもあってキツくてしんどいシーンもあるんだけども、なんというか各シーンのバランスが絶妙で、ただただ「すごいな…よくこういうかたちで芝居にしたな…」という感想をまず抱いた。というのも、開演前の諸注意アナウンスで出てきたひとを完全に池田さんだと思い込み、そのまま彼がスッと作品に入り、時に本人役として、時に回想シーンの進行役として、実にかろやかに劇に出たり入ったりするもんだから、「ご自身で演出して主演(?)もやって、なおかつこのテーマって…どんな達観の仕方なんだ…」と思ったんだよね。そしたらご本人ではなく、中村亮太さんという役者さんでございまして。それに気づいたのは帰宅後でした。なんとも。でもそれくらい引きつけられたということだよなぁと。

 

終始おだやかな調子で、自分の体験を話す池田さん(役の中村さん)。後半、久々に会った当時のいじめ加害者に対して、ものすごい勢いで思いをぶつけるシーンがあるけど、それまでの話の流れでこういう芝居に行き着くとは想像してなかったから、だいぶ衝撃的だった。でもその感情の爆発は何も不自然ではなくて、だからこそくるしくて、やるせなくて。この社会、なんなんだろうな、って無力感すら浮かんでくる。変わらないし、変えられないのか、と。物語の途中からタイトルの「弟兄」の意味に気づくけど、それがまた後半で重要になってきて、被害者と加害者という構図、何が救いに成り得るのか、ということを考えさせられる。彼にとってはなんでもないことでも、 別の彼にとっては「なんでもない」の一言では済ませられないほどの重しになることだってある。

 

一つ思ったのは、演劇というかたちをとることで、自らの思いをぶつけることが出来るのは強いな、ということ。不特定多数の人たちに演劇としてみてもらうことで一気に伝わるし、オープンになる。世に出る。ある意味、多くの人が目撃者となるわけだ。自分の記憶、感覚、体験、そういうものを可視化できる演劇という手段は、それを手にした時点できっと強みだ。うまく言い表せられないけれど、演劇が救いになることも往々にしてあるよな、と。作り手だけではなく、受け手、観客としての自分もまた救われることだってある。今回の弟兄は再々演とのこと。少し時間を置いてまた観れたらなと思う。ゆうめいの別作品も、あとは池田さんが関わる仕事も、できるだけ見逃さないようにしておこう。

【舞台】東京ノート -青年団

3月1日 吉祥寺シアター

 

青年団東京ノート。94年の初演以来、各国で上演されてきたという作品。オリザさんの著書やインタビュー等には触れていたものの、青年団の作品は今回はじめてだった。めぐりめぐっての観劇。こういうこともあるのだな。

https://twitter.com/oriza_erst_cf/status/1233520502477594625?s=21

オリザさんのツイートも後押しになった。この状況だからこそ、劇場で東京ノートを観たい。

 

近未来の東京、舞台は美術館のロビー。家族、恋人、友人同士など、いろんな人たちが往来する。そして、それぞれがそれぞれの会話をする。重なり合う会話をすべて聞き取るのは厳しいけれど、むしろこの方が自然なのかもしれない、などと思う。交わらないはずの人たちが、いっときだけ、空間と時間をともにする。東京の美術館という、開かれた場所のおもしろさを感じた。オリザさんの「演劇入門」を買って読んだら、東京ノートを例にとって、たとえば「セミパブリックな空間」や「会話ではなく対話」ということが書かれていて、観劇後だったのもあってとても興味深く読んだ。というのはまた後ほど書くとして、ともかく演劇や戯曲というものにより意識が向いた機会になったのは間違いない。

 

東京ノートはとくべつ大きな出来事があるわけではないけれど、物語の背景として、ヨーロッパで戦争が起こっていて、その戦火から逃れるために美術品が多数日本におくられてきている、というものがある。直接描かれているわけではないのに、美術館に居合わせた人たちそれぞれの中に感じる戦争の影。恐怖や困惑もあれば、自ら戦地に赴いて役に立ちたいという意見もあり、これは「いつか」の話ではなく、ほとんど「いま、ここ」の話なんだなという気持ちになる。そして“戦争”は、いろんなことに置き換え可能だということも。非日常の世界に飛べる、ということも演劇の醍醐味ではあるけれど、やはりこういう現実世界と恐ろしくリンクするような体験ができるのも、自分にとっては大きいなと思う。

 

今回は通常バージョンのみを観た。この設定、この物語が、各国で上演されているのはかなり気になる。戦争の捉え方、描き方も、国が違えばきっと変わるだろうし。インターナショナルバージョンもいつかまた観られるだろうか。

 

自分が足を運んだ日は最終日。はじめて訪れた吉祥寺シアターのロビーは、入場を待つひとや当日券を求めるひとなどでかなり混んでいた。おそらく、私のように他の観劇予定が潰れてしまって、情報を聞きつけて来たひとも少なからずいたと思う。劇場の空気感もなんとなく、同じ思いを共有している気がした。自粛ムードのなかで劇場に来た、演劇を観た、ということ。これから予想されること。予想できないこと。私も観客の一人として、「演劇が続いてほしい」と願った。そのためにできることは何か、も考え始めた。東京ノートをこのタイミングで観られたこと、大事にしたい。終演後の力強い拍手を聞きながらそう思った。

 

【舞台】ねじまき鳥クロニクル

2月22日(土)東京芸術劇場プレイハウス

 

舞台を見ながら「こ、これは何を見せられているんだ…」と思うときがあるけれど、今回がそれだった。といっても、単にこういう世界観に馴染みがないから、というだけかもしれない。そう…村上ワールドに馴染みがないんですよねぇ。というのは一度置いておいて。ねじまき鳥クロニクル、始まり方がまず好きだった。だんだんと照明を落とし、語り出す成河氏。どうしてもあれはルキーニを思い出してしまうよな。つくづく、狂言回し的な立ち位置、俯瞰した役が似合うひとだ。

 

アフタートーク門脇麦ちゃんが言っていた、「物語の筋を追うというより、例えばそのシーンにおける村上春樹さんや、(演出の)インバルのエッセンスを感じ取ってもらえたら」というはなしを聞いて、ちょっと安心した。何を隠そう、どうにも全体像が捉えきれなかったからである!(そんな堂々と)

一番分からなかったのは、主人公オカダトオルが、去っていった妻を探そうとしていたら辿り着いたホテルで、「女性たちを救う」行為をするというくだり。男性が女性に対して行うだけじゃないというのは、初老の女性・ナツメグの話で分かったけど、「救う」とは……?生理現象のはなし?全編にわたってコンテンポラリーダンスで表現されるから直接的には描かれないのだけど、だから余計にモヤモヤするんだろうか。想像して楽しむ作品ももちろんあるけれど… これは小説読んでいる人が楽しめる作品かもな、と途中から思いました。これカフカのときも思ったかもしれない笑

 

渡辺大知くんの芝居は映画でもけっこう好きで、今回はじめて生の芝居を観たけれど、本人のまっすぐさが役にも合ってたなぁという印象。声のトーンを落として話すのも良かった。歌も、そりゃそうなんですが上手い!ポーンと二階席まで届く届く!この、特殊なつくりの作品には、ただ歌がうまいという役者よりもきっと彼のように、個性をもった歌い方ができる人が適任だったんだろうと思った。

 

そして成河さん。彼は言わずもがな素晴らしいんですよね…期待を余裕で超えてくる。空間支配力、とツイッターにも書いたけれど、しゃべることで空気がピンとはりつめ、空間の矢印がすべて彼に向く、そんなちからを持ってる気がする。ひとを集中させるちから。すごいよなぁ。去年のBLUE/ORANGEに始まり、エリザベート、タージマハルの衛兵ときて今回のねじまき鳥クロニクル。見るたびに発見がある役者さんだなと。身体能力の高さ、そして今回はミュージカル的でない(エリザでも違ったけれど)歌唱がより際立っていて、なんだこの心地良さは!と思うなどした。

 

インバル・ピントというクリエーターについてはまだまだ知らないことも多いけれど、海外と日本の作り手がイチから一緒に作品を立ち上げるということ、その「世界初演」(と成河さんは言っていた)を観られることは貴重な体験であるのは確か。今回の「分からなさ」も自分の感覚として大事にしたい。