inmylife

みたもの記録

書くとか、書かないとか

書くことが楽しいって何だろう、という話。

 

一つ前の、Butterの感想を打ち消すようであれだけど。

徹夜の作業に取り掛かる前に、ちょっと吐き出す。

あとで消すかもしれない。

 

好きなことならいくらでも書ける、と言いたい人生だった。

残念ながらそういうタイプではない。筆は限りなく遅く、勢いよくスタートを切ったかと思えば1日では仕上がらず、翌日まで持ち越すとたいていお蔵入りになる。実際このブログでも3000字とか5000字とか書いておきながら、公開をあきらめた文章がいくつもある。

 

なんでこうなのか。でも、これがブログならまだいいのだ。自己満足だから。どう書いたって、書かなくたって、誰かに責められるものではないから。

 

ただ、当然ながら仕事だとそういうわけにはいかない。

いわゆる物書き、ライターではないし、テンプレがあるっちゃあるし、文字数だってたかが知れている。

これで書けない、なんて言ってたらどうすんだと思いつつ、でもやっぱりダメなものはダメで。多分、スランプとかそんなものでもない。書けないのは昔からだから。慢性的に書けないから、「ライターズブロック」(最近知った)でもないのは明白。すごく自分が惨めに思えてくる。

 

思えば、「書けない」ことと向き合い続け、苦しみながらやってきた社会人生活だった。新卒一年目、「なんでこんな文になるんだ?」「なんでもっと早く書けないんだ」と言われ続け、トイレで泣くしかなかった日々。書くことに対して少しばかりあった自信は消え去り、早々に辞めたくなった。あのとき、上司の前で泣けば良かったのかも知れないが、無駄にあったプライドのせいで、とにかく堪えた。

今ふと、堪えグセがついたのはこのときか、と思ったが、小学生くらいからそうだったから、そういう性分なのかもしれない。我慢強いといえば長所に聞こえるが、あまり自分のためにはなってない気がする。

 

上司が変わっての2年目。相変わらず、パソコンを前にして頭が真っ白になる日々が続いた。もっと誰かにアドバイスを求めたり、正直に「書けないです」と申告すれば良かったものの、自分ですら「何が」書けないのか、「なぜ」書けないのか、よく分かっていなかった。だから、どうやって相談すればいいのかすら分からなかった。上司にはどう見えていたんだろう。その頃になると、書き上げた記事に赤が入ることは少なくなっていて、「自分のタイミングで提出していいから」とも言われていた。単にチェックがゆるかったのかもしれない。おかげで緊張からは解放されたものの、もやもやからは逃れられなかった。

 

そのときの感覚をなんとなく覚えている。夢のなかで走るような感覚。前に進みたいのに進めず、足に何かがまとわりついているような鈍さ。夜9時、10時になって、皆が帰って行くのを横目に見ながら、「今日も1本しか上げられなかった…」と、よく落ち込んだ。当時の上司は責めるようなことはしない人だったから、ありがたかったけれど、出来ない事実には変わりなかった。

 

いつ、どうやって気づいたんだったか、文章の型をつくるようになってからだいぶ楽にはなった。書き出しや構成なんかは媒体の基本スタイルがあり、頭を使わなくともそれなりに書けるようにはなった。その実感が出てきたのは、4年、5年目くらいだったかと思う。だいぶ遠回りをした。

 

そんな歩みを経てきたからか、「書くのが楽しい」とはどういうことなのか、ずっと考え続けている。先輩に、「文章書くの楽しいですか?」といきなり聞いたこともある。もちろん楽しい、ずっと書いていたい、という答えが返ってきて、驚き、あいまいな相槌しか打てなかった記憶がある。

自分の場合、書くのが楽しいと思ったことはほぼなく、他の人たちがどういう感覚なのかが気になっている。これまで、書いて良かった、という経験は何度かあるものの、楽しいという感情や、もっと書きたいという感情にはつながらなかった。それはそれで仕事として割り切れているから良いとも言えるが、できるなら苦しさは解消したい。プラスの感情とまではいかなくても、プラマイゼロくらいにはなりたい。先輩が言っていたような感情がどこからやってくるのか知りたい。自分の中にもあるのだろうか。つくり出せるんだろうか。

 

今や、ブログやSNSで誰でも何でも発信できる時代。ネット上では常に何かしらのまとまった文章を目にするし、感想、体験談、プレゼン、主張や考え方を綴ったものなど、内容も幅が広い。

「オタクは文章がうまい」という説もよく見かける。確かにそうかもしれない。好きの感情が溢れ、勢いがすごい文章はそれだけで読み応えがある。自分にはなかなか書けないからこそ、いいな、うらやましいな、と思う。きっと、そういう文章を書いて出せる人は、それ自体が楽しいんだろう。楽しんで書いてるのが想像できる。伝わってくる。自分も、「これはぜひ書きたい!」という気持ちが湧き上がることはあるにはあるけれど、頭の中で浮かんできた言葉たちをアウトプットするだけの筆力、というか、胆力がない。もっとテクニカルな部分の問題という気もするし、今まで独学でやってきたんだから、一度ちゃんとした講座なり、指導を受けようかと思ったこともあるけれど、じゃあ果たして、書くことで生計を立てたいのか?と自問自答し、何度も足踏みをして今に至る。こんなんじゃ一生足踏みだ。

 

好きなことを好きなように書く、楽しんで書く。ただそれができればいい。今の自分はそれがしたい。プロの物書きではなく、ただの会社員なのだから、趣味で好きなことを書けばいい。自分が満足すればいい。でも、それすらできなくてもどかしい。なんでだろう。仕事に追い込まれているからなのか、生活が落ち着かないからなのか、疲れているからなのか。どれも当てはまるとは思う。だけどこのままでいいのか。書くことがつらいまま、この先も生きていくのか。

 

ひとつ、最近気づいたことがある。書くことは相変わらずつらくて苦しいけれど、文章を構成している言葉そのものには興味がある。言葉ってなんなのか。日本語、外国語、文法の仕組み、方言。今まであまりなかった、言葉を知りたいという欲が出てきた。韓国語を知って、習うようになったことが一つのきっかけであることは間違いない。

この感覚が、突破口になるだろうか。文章と、言葉と、もっと近づくことができるだろうか。

 

ここまで書いたところで、仕事をしてこよう…夜は長い。

 

飲み込んだ言葉と再び向き合う/BTS「Butter」を聴いて

久しぶりに、気持ちを言葉にして外に出したい、と思った。最近は勢いで文章を書くことがまったく出来なくなっていて、そんな自分を諦めていた。でもやっぱり、書きたくなる瞬間ってあるんだな。

 

BTSの新曲「Butter」について、感じたこと、思ったことを書いてみる。

 

金曜日の午後2時すぎ。ちょうど仕事が重なり、1時間ほど遅れてMVを再生した。ティーザーやメンバービジュアルは確認していたけれど、「何だかすごくおしゃれ」ということ以外、何がくるかは一切予想できず、とにかく見た。

 

youtu.be

 

それはもう、当たり前にかっこよくて、眩しい7人がそこにいた。

(この時点ではまだ泣いてない)

曲はポーンと突き抜けるような爽快さが印象的で、何よりすごく聴きやすいと思った。入りのシンプルさから、こんな真っ直ぐポップなサビが繰り出されるとは。もうちょっとひねくれた感じかと思っていたのに、意外と素直…!(?)

一つ前の楽曲といったら「Life Goes On」になるけれど、これはハッキリと、“Dynamiteの次の曲”としての位置づけなんだな、というのが伝わってきた。全編英語詞というのはもちろん、全体の印象として。でも明らかに、守りではなく新たな攻めのスタイルだし、手加減など微塵もなく、ぎっちりと魅力を詰め込んでくるのがたまらない。涼しい顔でアクセル全開ですからね…最高です。

 

ただ最初は、あまりにもスルッと入ってくる(「バターのようになめらかに」と言ってるくらいだし)耳馴染みの良いメロディだったから余韻には残りづらいかな、と思っていて。で、繰り返し聴いて味わってみたら、いや…むしろ逆かも!となった。

いい意味で“クセがない”おかげで、ストレスなく何度も聴けて、いつのまにかしっかり浸透している、という。音楽の詳しいことはわからないけれど、この「ずっと流れてても気にならない」→「心地よくて、なんだか聴いちゃう」→「いつのまにか覚えてた!」みたいなサイクルは、まさにDynamiteで多くの人が体験済みだろうし、きっとハイブ制作陣の戦略的な何かがあるのかもですね。あとでグローバル記者会見を見よう。

 

と書いたけれど、何も余韻が残らないなんてことはなく。

個人的に好きなところを書くと、「意外に憂いを帯びている」ところがまず一つ。これも、コード進行云々は何も分からないまま言っていますが(笑)、完全にメジャーに振り切ってもいないし、マイナーっぽさが隠されてる感じが良い。Dynamiteは終始、陽の雰囲気をまとっていたけど、Butterをずっと聴いてるとほろ苦さもあって、それはズンズン鳴ってるベースとか、ソロダンス以降にあらわれる金管楽器(サックスかな…?)の渋めの音がそうさせてると踏んでいる。ただ単に陽のエネルギーを発してるだけじゃないところがとても良いな、聴きたくなるポイントだな、と思う。

 

あと、後半の駆け抜け方がすばらしい。後半にいくにつれてテンションがどんどん上がっていく展開。最高です。具体的に言うと、またもやソロダンス。ここの、一気にアクセル踏み込む音の感じと一人ひとりのフリースタイルな動きが絶妙にマッチして、まず一段階ギアが入る。その次、ソロダンスのラストに7人で「Get it,let it roll」に重ねた「wo〜〜〜〜〜 yeah!」の盛り上がりからのユンギラップ→(後ろでho〜!言うてる) →ナムジュンラップ(ここから入る「うーううーううー」のコーラスがまた良い)→「Got ARMY right behind us when say so Let's go(僕たちの後ろにはARMYがいる)」→\ARMYのテンションが上がる/→きた!黄金のサビ!(タレみたいに言うな)→からの!!!!!ホソクさんを中心に据えた完璧な布陣!!!!!!!興奮する。とても興奮するね。ほんとうにここ好きだな。ここだけで好きなポイントいくつも言えそう。あと、髪上げverと髪下ろしverのホソクさんが交互に登場する演出のやばさよ…どちらもビジュアル素晴らしくて目が回る。みんなが楽しそうにいえーい!ってやってるのも、前半からの抑えめなテンションが最後の最後に解き放たれる感じも気持ち良い。バチバチにキメたバンタンの輝きの強さがあってこそ、このラフに楽しんでる感じが際立つし、それで締めるのがニクいよなぁ、分かってるなぁ、と何度見てもニヤけてしまう。

(文章のテンションが違いすぎて、ちょっと恥ずかしいのでツッコミを入れておく) 

 

 

ようやく一週間が終わった金曜夜、ベッドに横になりながら、その日何度目かのMVを再生していたらいつの間にか泣いていた。

自分でも何の涙かは分からない。こわばってた心と体がほぐされて、そこにスッとButterが入り込んで来た。「こんな曲やあんな曲が聴きたい」と、ファンという立場でいくらでも言ってしまうけど、彼らが届けてくれる曲に正解も不正解もない。曲を聴いて、MVを見て、歌詞を読んで、そのメッセージを自分なりに受け取って。あるいは、そのまま何も考えずにただ受け止めて。そんな一連の行動のなかで、私は間違いなく癒やされている。能動的に何かを発するも発さないも一旦はどちらでもよくて、自由に感じればいいんだよな。自分なりの距離感で、誰と比べるとかでなく。と、この週末にButterを何度も何度も聴いて思った。楽曲の解釈だって、きっとファンの数だけあっていい。何を感じたっていい。

 

 

まだまだ書きたいことがある。冒頭で「最近書けない」と綴ったのが笑えてしまう。MVのすきなポイントも、歌詞についてもまだある。言い足りないこと。また思いついたら書きにこよう。

 

【舞台】二月大歌舞伎・第一部「泥棒と若殿」

「こんなに繊細でやさしい歌舞伎があるのか」と思った。これからも時々、ふと思い出しては噛みしめるような気がする。それくらい染みてくる物語だった。

 

山本周五郎原作「泥棒と若殿」は、1968年初演とのこと。以前上演されたときは、十代目坂東三津五郎さんが若殿役、四代目尾上松緑さんが泥棒役で、今回は息子の巳之助さんが若殿を演じ、松緑さんと共演するという、期待値が上がらないわけがない組み合わせ。発表時に歌舞伎ファンの皆さんがよろこびの声を上げていたのも頷ける。

 

物語は、お家騒動に巻き込まれ、3年ものあいだ幽閉されている若殿・松平成信と、偶然その屋敷に入り込んだ泥棒・伝九郎との交流を描いたもの。立場の違う2人による、感覚や会話のすれ違いの面白さだったり、まるで夫婦のような掛け合いが微笑ましかったり。いつしか「のぶさん」「でんく」と言い合うほど関係性が深まっていく過程がなんともいとおしくて、ずっと2人の会話を聞いていたい!と思った。(でんく、って響きかわいいな…と何度も思ってた)

前半はコミカルな場面も多くて、とくに松緑さん演じる泥棒のドタバタっぷりにはこらえきれず、静かな歌舞伎座にも何度か笑い声が漏れていた。登場して早々「これは根っからの泥棒ではないな」と誰もが気づくような、憎めないかわいいキャラクター。みんなで見守っているような感じだった。歌舞伎のこういう温かい雰囲気には癒やされるなぁとつくづく思う。

 

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冒頭で「繊細でやさしい」と書いたけれど、具体的にどこでそう思ったか。という話を思い出しながら少ししてみる。セリフはあいまいなので、ご容赦ください。あと、結末まで触れています。

 

一つ目は、伝九郎が自身の恵まれない身の上を語る場面。早くから奉公に出て苦労し、実父は酒浸りで荒くれ者、のちに結婚する妻も博打打ち(実は、本当の夫は別にいた)だったり…とにかく散々な目に遭ってきたという伝九郎。それを聞いた若殿・成信は、「大変だったな。でもお前をそうやって苦しめてきた人たちも、実は今頃、世間の片隅で寂しく生きてるんじゃないか。そう思うと同じ人間だなと思わないか?」というようなことを言う。さすが俗世に疎いというか、寛大すぎるというか、「そこまでは思えないでしょう…!」と心のなかで思わず突っ込んでいると、伝九郎がすかさず、「馬鹿言っちゃいけねえや!そういう経験をした本人しか分からない(言えない)ことがあるんだ」と返す。成信の考えも分からなくはない。本人の出自と、それにまつわる逡巡の末に出たものだと考えると、自分に言い聞かせているようにも思える。ただ、その言葉に押されずに、自分のつらさやしんどさを言葉にして正面から向き合った伝九郎になんだか安心した。ここに2人の対等な関係性を見て、「こんな描き方もあるんだな」と感じた場面。

 

そして二つ目。これがなかなか響いた。ある日、城からの使いが成信のもとへやって来て、「お父上が亡くなったので、次の殿はあなたに決まりました」と告げる。でも、伝九郎との共同生活がすっかり気に入っていた成信は、「私はもう庶民として生きていく。ほっといてくれ」と突き放す。そのあと夕飯を食べながら、「一緒にどこかへ行こうか」と言われた伝九郎は、こんなふうに答える。「いや、急ぐことじゃねえよ。のぶさんが健康になってからにしよう。まだ調子が良くないように見えるんだ。(体じゃなくて)心が弱っちまってる気がする。だから今はゆっくり休めばいいさ」………す、すごい。こんなセリフを歌舞伎で聞くことになるとは…と、驚いた。これも新作歌舞伎ゆえなのか。山本周五郎の作風による味わいなのか。それにしても伝九郎はすごい。どんくさい登場シーンからは一転して、実はかなり思慮深く、他人の痛みに気づき、引き受けられる人だった。泥棒どころか、悟りをひらいた僧侶なのでは。これまでしてきた辛い経験があるからこそ、痛みや苦しみにも寄り添えるのかもしれない。伝九郎にこういうセリフを言わせるのも、良い具合に染みるポイントな気がする。

 

伝九郎のセリフばかり語ってしまったけれど、成信の佇まいや言葉も、話が進むほどに元々の「若殿」としての毅然とした姿が滲んでくるのが良かった。演じる巳之助さんの凛とした雰囲気にもぴたりとハマっていた。これがいわゆる、“ニン”というやつなんでしょうか。それを言ったら、もちろん松緑さんの泥棒も。前に見た「あんまと泥棒」の役を思い出したけど、振り幅や奥行きとしては「名月八幡祭」の新助もよぎった。あれはトラウマというと大げさだけど、忘れがたい作品…。

 

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そしてクライマックス。成信は家督を継ぐ決心をする。家臣たちの思いを知って、(ここの説得の言葉も力が入っていてとても良かった…!)「自分の責任を果たそう」と言う。この、生まれながらの責任、それぞれの役割という表現。捉え方によっては残酷だけど、物語における成信の「殿」という立場と、対する伝九郎の「庶民」という立場をハッキリさせる意味では大事なんだろうな。普通ならあり得ない2人がともに時間を過ごして、心を許せる友になれたからこそ、“本来いるべき場所に戻る”という決断の重さを一層濃くしている気がする。ほんとうならずっと一緒にいたかっただろうに。このへんからどんどん切なくなる。

 

別れの朝がやってくる。成信は正装(殿の格好)をして、何事もないように朝食の支度をする。あれ、殿って料理できるっけ…?と思っていたら、耳元でイヤホンガイドが「伝九郎の姿を見て、炊事の仕方を覚えたようです」と。なんてこと…泣かせにきている……。こういうときのイヤホンガイドの一言は絶妙だなと思う。その後、伝九郎が一瞬離れたときを見計らい、立ち去ろうとする成信。それを見つけて、「のぶさん!!!」と声をかける伝九郎。確かここで、さっきの「責任」という言葉を話すんだったかな。涙をこらえながらも、振り返らずに去っていく後ろ姿が印象的だった。残される伝九郎…松緑さんの表情がたまらなくて、涙で光っていて、舞台が奥にまわっていく間もずっと目で追ってしまった。

 

この時点でだいぶセンチメンタルになってるのに、まだ最後畳み掛ける。一つ前の場面で伝九郎は「一緒に暮らすんじゃなかったのか?」「2人でならずっと楽しくやれると思ってたのに」と悲しげに問いかけるけど、外で待つ家臣たちを見て、「待ってる人たちがこんなにいるんだもんな」と気持ちを固め、行くべき場所がある成信に手を振って見送る。ここではじめて言葉を飲み込むのも、余計に切なさが増すんだろうな。

 

最後に成信が残す「また会おう」という言葉。再会はきっと難しいとわかっているだろうけれど、別々の道で成すべきことを成した暁には、互いの存在を心の中で感じられる瞬間がくるかもしれない。またいつか。2人の別れを演出する桜が儚い。

 

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こんなに自然と泣けた歌舞伎の演目は、はじめてかもしれない。これまでも感動したり悲しかったり、泣けたものはあったけれど、ここまで物語に入り込んだのはあまりなかった。それだけ、松緑さんと巳之助さんが演じる泥棒と若殿に魅せられて、引き込まれたんだと思う。

 

先日の紀尾井町家話でのトークを聞いて、この演目にかける想いや、松緑さんの三津五郎さんとの思い出、そして巳之助さんに向けるまなざしのあたたかさ、大きな期待。そういうものをひしひしと感じて、素敵な関係性だなと思った。そんな2人による「泥棒と若殿」、本当にすばらしかった。これからもぜひ続けていただいて、多くの人に見ていただきたいなと思う。家話で語っていた演目での共演も大いに期待しつつ。

 

 

【舞台】宝塚「WELCOME TO TAKARAZUKA/ピガール狂騒曲」

新年明けました。2021年どうなるんでしょう。

不安は尽きないけれど、なんとかやっていくしかないんだろうなぁ。

 

ところで、年内に更新しようと思っていた記事がいくつか編集途中のまま終わっていたので、このタイミングでアップしちゃいます。早くしないと記憶が!

 

以下、 簡単に目次を。(4000字弱書いてしまったので…)

  

やさしさに包まれて

 

12月某日。

2020年ラストの観劇を飾ったのは、なんと、人生初の宝塚でした。

向かいのクリエにはよく行っていたけれど、もちろんはじめての東京宝塚劇場。座席につくまで、いや、幕が上がるまでなんだか実感が沸かなくて、本当にこれから私は宝塚を観るのか…?という不思議な気持ちのまま開幕。そしたら第一声…

 

 

 

「ウェルカム!ウェルカム!タカラヅ〜〜〜カ〜〜〜!!!!」

 

 

 

「??????」

 

あれ、私、めっちゃウェルカムされた……?(←幕間で友達にリアルに言ったひとこと)

 

からの、チョンパ。これがチョンパ…ほうほう…

冒頭の「それが宝塚」のメロディーがすごく耳馴染みがよくて、終演後もしばらく頭の中ぐるぐるしてた。なんなら今も。

  

それにしても、新参者にもひたすらやさしい宝塚。こんな初心者の私にも扉を全開にしてくれるなんて。実は去年、観劇目標の一つに【宝塚と劇団四季を観に行く】というのを掲げていたものの、延期や中止などいろんな状況が重なり、すぐには難しく。そんな中でようやく叶った12月。タイミングや縁にも感動した。声をかけてくれた友人にも心から感謝!

 

引き込まれる日本物レビュー 

 

まずはレビュー「WELCOME TO TAKARAZUKAー雪と月と花とー」について。

こちらの監修は坂東玉三郎さん。歌舞伎でいつも拝見している玉様が宝塚…!そのことを知って、今回が初観劇でよかったかも、と一層うれしくなる。

 

タイトルのとおり雪月花をキーワードに、日本の四季や心情を表現する日本物レビュー。まずレビューというのはなんぞや、宝塚の舞台構成とは…?となるくらい初心者だった私ですが、友人から過去の映像を見せてもらったりして、一応事前にイメージできていたのは良かった。よく「ジャニオタなら絶対好きだし、すぐ馴染めるよ!」という言葉を聞いていたのだけど、たしかに、それは映像だけでも思った。一度でも帝劇に通う日々を経験していたらピンとくるような、エンターテインメントの世界観。なるほどなるほど。ジャニオタと宝塚の親和性が高いのも納得ですわ。

 

今回のレビューは、舞踊の美しさと、ステージを隅から隅まで使った群舞がとても見応えがあって、とくに斜め一列を使ったダンスには圧倒された。洋楽に乗せた日本物レビューというのも、不思議な魅力があってぐいぐい引き込まれた。

個人的なお気に入りは、第5場の「花の巻」。大きな鏡の前で練習をしている男役さん(演じるのは月城かなとさん)が、鏡のなかの自分に誘われるかのようにして、次第に役者の自覚を持ち…というような内容。チャイコフスキーの「花のワルツ」に乗せて鏡のなかの自分と軽快にやり取りする様子が、どこか喜劇映画のようでとても楽しかったな。

 

ちなみに、1月2日にはNHKBSでこのレビューがすでに放送済みで、上演から放送までの早さにもおどろく。番組ゲストには、宝塚ファン・珠城りょうさんファンを公言している歌舞伎俳優の中村橋之助さん。今録画を再生しながらこれを書いてるけど、橋之助さんほんとうにうれしそう…(反応がだいぶこちら側だ…)いやはや、よかったねえ…。ポーの一族も応援してます。

 

 

時代を映すピガール狂騒曲

 

つづいて、ミュージカル「ピガール狂騒曲〜シェイクスピア原作『十二夜』より」。これがまた素晴らしかった!!!事前に情報を入れないで見たほうがいい、とのことで、内容を全く頭に入れておらず、キャラクターの設定や最後の展開もすべて新鮮に受け取れたのが良かった気がする。改めて十二夜のストーリーを見返したら、ほぼ一緒でびっくりした。前回ブログに書いた「外地の三人姉妹」の原作、チェーホフの『三人姉妹』もだけど、有名な戯曲は知ってた方が理解が深まるのは間違いない。でも、こうやって観劇体験とあわせて知ることで、より印象に残って良いのかも。と思うなどした。

 

舞台は1900年のパリ。ミュージックホール「ムーラン・ルージュ」を中心に、いくつかのストーリーが絡み合って予想外の展開になっていくロマンチックコメディ。最初はまず、このムーラン・ルージュの現状が語られる。かつて街一番の人気を誇っていたホールも、今や閑古鳥が鳴いている状態で、劇場の支配人であるシャルル・ジドレール(月城かなとさん)はなんとかして起死回生の一発をはかりたい様子。そこに現れる一人の青年・ジャック(珠城りょうさん)は、ムーラン・ルージュに憧れを抱き、どんな雑用でもいいから働かせてほしいとシャルルに頼み込む。ただ、それは彼の複雑な状況からくるものだった――。

このジャック、実は男装した女性だったというのが話の肝であり、原作の十二夜に忠実な点。途中までは完全に男性キャラクターだと思って見ていたから、女性だと判明したときは「そうなるのか…!」と納得しつつ、「あれ、じゃあこのあとの展開って?」という疑問が同時に湧いて、脳内が一気に混乱した。

 

結末を言うと、主人公ジャック(改めジャンヌ)は、劇場の支配人であるシャルルと結ばれ、当初ジャックを男性と思い込んで思いを寄せていた作家・ガブリエルは、ジャックの異母兄弟、ヴィクトールと結ばれる。

 

これだけ書くとなんのこっちゃだけど、話がラストにたどり着いたとき、それまでのドタバタっぷりもしっかりとラストへの布石になっていて、見事だな〜と感心してしまった。あと、いわゆる“男装の麗人”が主人公というユニークさもさることながら、最後はトップさん(珠城さん)と二番手の男役さん(月城さん)が結ばれるという、さすがに宝塚初心者の自分でも「これはイレギュラー…ですよね…?」というような展開がなんとも面白かった。こんなことあるんですね。いや、そんなにないのか。

 

でも、このピガールを見て良かったなと思ったのはまさに、上に書いたような点で。というのも、この物語の根底にあるのが、“従来の価値観を脱ぎ捨てて、新たな時代へ”というメッセージだと思っていて、それが随所に散りばめられ、ラストにまでしっかり貫かれていたのが印象的だったから。

 

舞台となった1900年のパリは文化や経済が発展し、新たな時代へ向かっていたとき。時代こそ違うけれど、2020年から2021年、今この時期とも少なからず重なるように思う。冒頭、夫のゴーストライターを続けることに嫌気がさしたガブリエル(美園さくらさん)は、〈女性が男性に従う時代はもう終わった〉とはっきり言い放つ。そしてジャックと出会い、自らがステージに立って光を浴びようと決意する。一方のジャックは、家庭の事情から自分を偽って生きているけれど、ありのままの自分で想いを伝えたい相手と出会い、苦悩する。最終的には女性であることを明かしながらも、服装はこれまでどおり、“ジャック”として。美しいドレス姿であらわれ、周りも皆びっくり…というありがちな流れじゃないのがとても良かった。

作・演出の原田さんがプログラムで書かれていた「ベル・エポック版“とりかえばや物語”」というのも踏まえると、ジェンダー視点も加わってより興味深い。

 

あともう一つ。十二夜のストーリーの軸は恋愛だけれど、ピガールでは、ジャックの相手となるシャルルには、そこまで恋愛要素が感じられないのもそれはそれでいいなと思った。一見厳しい仕事人のようでありながら、ダンサー1人ひとりの衣装に気を配ったり、「興行主にとって踊り子は宝」と言って、愛情深い面を見せたりするシャルル。興行という場を愛し、自分の仕事に誇りを持っている姿は魅力的だったし、ジャックが次第に惹かれていく過程も“分かるな”と思えた。欲を言えば、最後まで恋愛が絡まないバージョンも見たい、なんて思ってしまったけれど。でも、いろんなかたちの愛があり、カップルのかたちがある、という描き方でハッピーエンドを迎えたのは良かったな。

 

月城さんシャルル、めちゃくちゃかっこいいんだ……。カフェブレイクでは「珠城さんを包み込むなんて、どんな包容力…」とおっしゃってたけど、いやいや、すてきな包容力でしたよ…包まれたいわ月城シャルルに……。「稽古場でキスシーンが追加になって〜」のくだりもめっちゃ面白い。れいこさん面白い。癒やされる。かわいい。素敵。

 昨春ふと月城さんに目を奪われ、ゆるやかに追っていたら、のちのち某KPOPグループ…というかBTSがお好きと知って叫んだのは言うまでもない。こんなことあるんです?????ラジオでDynamiteもかけていて「ひえ〜〜〜〜〜(泣)」となった。この話はまたどこかで。。

 

 

最後に、劇中で歌われる「ラ・ベル・エポック・ド・パリ」の一節を紹介して終わります。 

回る回る赤い風車のように/私の人生 自分で選び

人生という名の舞台/自分で決めるのよ今

 このパートを歌うのは、自立の道を力強く歩み出すガブリエル。

人生の決定権は自分にある。誰でもない、この自分。

何より、2020年を締めくくり、新年を始めるときの作品がこういうポジティブなエネルギーとメッセージに満ちているというのが素晴らしい。私自身とても元気づけられた。

 

はじめての宝塚観劇が月組というのもうれしかったな。なかなか大変な時期だけれど、機会を見つけてまた観に行けるように、しばらくは情報をチェックしておこうと思います。

 

 

 おわり。

 

【舞台】外地の三人姉妹

12月19日 KAAT神奈川芸術劇場

 

今年は多くの人がそうだったように、自分もKカルチャーにどっぷり浸った。ドラマ、映画、音楽、文学に触れ、それらを生み出した韓国の歴史や文化にも興味がどんどん派生して、ここ何年かで一番、学びたい意欲が湧いてきている。時間も体力も、頭の回転も追いつかないくらい、触れたいものが多いという状況。幸せなことには違いない。

 

ただ、演劇に関しては、なかなか近づくことができていない。ミュージカルは配信で観ることができたけれど、“その場で体験すること”に一定の価値を見出す舞台芸術は、配信がイコール観劇体験にはなりづらく、一観客としてももどかしさを感じる。配信は集中できないという個人的な課題もある…。「大学路で観劇したい!」というのが、韓国に行ったらやりたいことの一つ。

 

そんななかで知った、「外地の三人姉妹」。

 

日韓コラボの作品をKAATで上演するというから驚いた。すごい。このタイミングで可能なんだろうか?とまずは思った。けっこう攻めるな、と。

そしたら、東京デスロック主宰の多田さんと、韓国の劇作家ソン・ギウンさんは以前、『가모메 カルメギ』という作品でタッグを組んでいて、フェスティバルトーキョーでも一緒にやっていたとさっき知った。長いご縁らしい。

www.cinra.net

 

実は前日まで、この状況で行くかどうしようかと悩んでいたけれど、年末恒例の「中村屋ファミリー」特番を見て、今年観られなかったたくさんの舞台に思いを馳せて、足を運ぶことにした。ありがとう中村屋。歌舞伎の話もそのうちしたいな。

 

ちなみにKAATは、そのとき上演してる作品のどでかいポスターが壁面いっぱいに掲げられているのが好き。今回は開館10周年のポスターだった。会場はほぼ満席で、客層もバランス良い感じ。こうやって観客を眺めて思うのは、みんな何をきっかけにこの作品を知って、見に来ようと思ったんだろう、ということ。特に深い意味はないけれど気になる。席となりになった人とかに聞いてみたい衝動に駆られることが、たまにある。

 

・・・

 

さて本題。以下、あらすじ(劇場サイトより)。

1930年代、朝鮮半島の北部にある日本軍が゙駐屯している都市、亡くなった将校の息子と三人姉妹が住んでいる屋敷。息子は朝鮮の女性と結婚し、姉妹はいつか故郷である東京に戻ることを夢見ている。戦争へ向かう帝国軍人達の描く未来像、交差する朝鮮人の想い、姉妹達の日本への望郷の想いとは・・・

www.kaat.jp

そもそもの話、ベースとなっているチェーホフの『三人姉妹』を私はほとんど知らなかった。あらためて原作のストーリーをさらったら、登場人物や設定はほぼ同じで、観ながら気づけたら楽しかっただろうなと思った。でも、さほど問題なく作品の大枠はつかめる。ステージ奥に下げられたスクリーンに、「1幕、福沢家○○の場面」「1910年日韓併合」といった具合に説明が表示されるから理解はしやすかった。

そして今回は、韓国の俳優さんも参加されていて、韓国語のセリフもある。日本語と韓国語が飛び交い、スクリーンに二言語が映される。それこそ、劇場でないと感じられない空気や言葉の重なりがあって、それを体験できただけでも行った意味があったなと思う。

 

観終わって思うのは、「面白かった」「感動した」「心に残った」とか、そういう単純な感想ではまとめきれない、ということ。そんなことを言ったら、「なるべく言葉にする」というブログを始めた目的が失われてしまうんだけど…。

まず、日韓の歴史を直接的に扱う演劇作品に触れたのがはじめてだった、というのが大きい。戦時下の日本を舞台にした映画やドラマは見ていても、同時代の朝鮮半島を舞台にした演劇作品ははじめて。演劇だと、映像作品と比べて、他人事として見られないという感じが強まる気がする。“目撃してしまっている”という感覚もあるし、何より隔てる壁がない。ステージの上と下で壁はあるようでない。だからその分衝撃が強いし、緊張感やしんどさも増すし、情報量に圧倒される。

 

スクリーンに淡々と映し出される日韓の年表。教科書に記され、学生時代にゴロ合わせで覚えた年号や出来事が、次々と流れてゆく。そのとき日本人は、韓国人は、そこに居合わせた人びとは、どんな風に生きていたか。当然、教科書では読み取ることができない思いが、物語をとおして迫ってくる。

テスト用紙に書きつける回答としては、“知ってる”。でも、私は本当に、隣の国の歴史を知っているんだろうか…?今年は何度もその問いが頭に浮かんだ。そして、今回の観劇でも。知るのは簡単ではないし根気がいるけど、いろんな視点からそれを続けていかないと、と思う。

 

・・・

 

三人姉妹は、翻弄されて疲弊する。泣きわめく。絶望する。楽しく笑っているシーンは、前半の一部分かもしれない。彼女たちに直接危険が及ぶことはほとんどないけれど、周囲の人間や環境が戦争で変わってゆくことで、平和は次第に脅かされて、「内地(東京)に帰りたい」という想いが募る。東京に戻ることで、果たして彼女たちは幸せな人生を送れるのだろうか。そんな疑問がよぎる。

 

ラスト近くである悲劇が起きて、三人姉妹が肩を寄せ合って泣き崩れる場面がある。そこで長女の庸子が、三女の尚子に向かって「前を向いて生きていきましょう」と必死に励ます。すると尚子は泣きながら、「前って、どっち?」と聞き返す。「前は…みんなが向いてる方よ」と庸子。このあと、「それでも生きていかなきゃならない」という覚悟を口にする姉妹だけど、この「前って、どっち?」という言葉が、この作品の肝になっている気がした。進むべき道すら分からない現状。でも、悲しむだけでは何も変えられない。生きてる限りは足を前に踏み出さなければいけない。そんな無力さと戸惑いがリアルに響いてきた。この時代だけじゃない、今だって前後左右が分からなくなることがある。どうやって生きていけばいいんだろう。何を道しるべにすれば、心が折れずに済むだろう。三姉妹が揃って同じ方向を見つめるシーンから、つらさや悲しさを分け合える存在がいることは、現実に立ち向かう一つの方法だな、と絶望の中に少しの光を見る。

 

姉妹だけじゃなく、兄や、同居する医師、軍人たち、その土地に住まう人たちなど、皆それぞれが思いをぶつけたり、言葉を飲み込んだり、何かを諦めたりしながら、進んでいく。何が正しくて、何が正しくないのかは、そのときになってみないと分からないという気がしてくる。状況や環境がその人をつくる、ということも思う。

 

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つらつら感想を書いてみた。何かをつかめた、という感じはあまりない。でも「知らねばならん」という気持ちが強まったことは確か。

あとは、演出に関しては正直よく分からないところもあった。あまりツイッターとかで言及している人を見かけなかったけど、ある場面でBTSの「FAKE LOVE」が流れて(おまけにアミボムも登場)、全く前後の脈絡なくきたからポカーンとしてしまった。なぜBTS?なぜそこで流す?歌詞から解釈を引っ張ってくれば良いのだろうか。そういや、Perfumeの「FAKE IT」のリミックス的なのも流れたから、「FAKE」つながり???とか思ったけど、やっぱり分からない。演出の多田さんは、<音楽に積極的にJポップやKポップを取り入れるなど、音楽、照明、映像を大胆に使用する演出手法で、戯曲が書かれた当時と現代を繋いできました>という説明があるとおり、わりとよく使っているのかもしれない…がしかし。KPOPの記号化については興味があるけど、実際読み取るのは難しいというか、若干ネタ的な使われ方になってたのはモヤッとした。どなたか解説を…。演出については、もう少しいろいろ観て知ってから追々、か。

 

 

最後に、会場で配布されたリーフレットにあった多田さんの言葉を紹介して終わります。後半が特に、今年自分が感じた気持ちを表してくれていると思ったので。

日韓双方からの視点や登場人物それぞれの視点、自分とは違う他者を想像することへの希望と、想像のつかないことへの絶望にも寄り添ってもらえたら嬉しいです。

 

 

12月もあと10日ほど。できれば、何かまとめの記事を書いて終われたらベストだなぁ。気力もほどほどに残しておきたい。

 

 

「深淵」を覗き見て、思わず伝えたくなったこと

まさか誕生日の本人から、真っ先にプレゼントをもらうことになろうとは。驚きと嬉しさと、いろんな気持ちが混ざり合ったまま日付が変わり、12月4日になった。

 

BTSの長男、キム・ソクジンさん、誕生日おめでとう。

まずは心からの感謝を。いつもメンバーとARMYに愛情を惜しみなく注いでくれて、ユーモアとやさしさで包んでくれて、自分を愛することがいちばん大事だよと伝え続けてくれて、ありがとう。

 

昨夜から少し経って、落ち着いた今あらためて思う。好きな人の作品に刺激を受けて書ける文章、こんなに幸せなことってない。全然まとまりそうにないけど、日記と称して思ったまま書いてみます。

 

= = =

 

ちょっと振り返ってみる。

私が一番最初にジンさんを認識したとき、「メンバーの精神的支柱」と紹介されていたことを思い出す。「精神的支柱」…って、どういうことだろう、と思った。物静かで冷静で、おだやかな人だろうか。最年長と書いてあるから、リーダーなんだろうか。実際そのときはあまり率先して喋ってはおらず、周りを見守ってるように見えて、「あぁ、この人は一歩引いて俯瞰するタイプの人なのか」と何となく思った。

 

そこから「精神的支柱」の意味を知るまでに、時間はかからなかった。

最初に抱いた「物静かでおだやかな人」という印象は、いろいろと見ていくうちに一度打ち消され、こんなにも明るく笑う人だったのかと驚き、つられて何度も笑った(ほんとにつられるよねあの笑い方……)。弟たちとワイワイ騒ぐ子どもみたいな姿に、「この人が最年長ってなんかいいなぁ、全然年上っぽくないもんなぁ」と、見れば見るほど愛おしさが増していったし、メンバーから彼に向けられる愛情や信頼を感じるたびに、「BTSの最年長」の意味を噛みしめた。最年長がリーダーではないBTS。その最年長がキム・ソクジン。今だからこそ分かるけど、このバランスって本当にすごいなと思う。

 

ちなみに、私がめちゃくちゃ好きな愛されジンヒョンはこれです。まるっと愛おしい。後ろでONの演歌版(らしい)を歌ってるユンギさんももれなくかわいい。元気がないときに見るといいと思います。

 

youtu.be

 

ただ、第一印象というのは案外無視できないもので、そこからまた何周かした今は、最初に感じた印象――おだやかで、冷静で、一歩引いて俯瞰しているような人――が鮮明に浮かび上がってきている。

 

自分のなかで大きかったのは、ドキュメンタリー映画BREAK THE SILENCE』(通称ブレサイ)で語っていた、「自分は、BTSのJINとキムソクジンを完全に分けてる」という話。これを聞いて、「この人は自らのフィルターを通して、何を見せるべきかはっきり選別した上で発信してるんだ」と知って、(そこまで完全に切り分けられる強靭さってどこから来るんだろう…)とますます興味が湧いた。 

なぜ、“興味”かというと、私が昔から推してきた人たちに共通するものを感じたからだった。ステージ上で、表現者として立つことにこだわっていて、本人の感情、たとえば、過程で生まれる苦労が透けて見えることを、良しとしない人。「自分を通して作品を見るのではなく、出来上がった作品そのものを見て感じてほしい」と言うような人に、私は信頼を寄せてきた。とは言え、こちらもまぁまぁ長いことオタクをしているので、提示されたもの以上に受け取ろうとしがちだし、裏側を見せてもらえたら何だかんだ嬉しい。長年、この矛盾には答えが出ていないのだけど。

 

 

…と、こうなってくると、ジンさんの考え方はその最たるものではないか、と思った。アイドルとして、BTSとして求められている姿と、本来の自分とをはっきり分けて見せてくれている。気持ち良いほどに。それなら、彼が提示してくれたものをそのまま受け取ろう。

 

そう決めたところだったのだ。

 

ところが、Weverseのインタビューを読んだあたりから変化を感じた。もしかして、本音のような感情を共有してくれている…?と。

いや、もう少し前からかもしれない。やや遡って、10月のオンラインコンサート最終日。ラストで捌けていくときの表情が実はずっと気になっていて、終わったあともしばらく、「あのとき何を考えていたんだろう」「その感情を知ることはないのかな」と余韻を引きずり、寂しさが募った。思わず検索もかけてしまった。ファンになったばかりで何を知ってるわけでもないけれど、MCでの「やるせない、切ない」という率直なコメントとともに、どうしても気になってしまったのだ。「あーみー!」と茶目っ気たっぷりに叫んで、笑顔で去っていくイメージばかりが先行していたからだと思う。ただ、探りすぎるのは彼の意思に反すると思ったし、必死に考えないようにして、時間が過ぎていった。

 

そして、11月。「BE」リリースに関するWeverseのインタビューを読んだ。詳しくはぜひ本文を読んでもらいたい(ほかのメンバーのテキストもすごく読み応えがあった)のだけど、Dynamiteのヒット後、「自分がこんなにまでお祝いの言葉と愛をもらっていいのかと思った」という気持ちを吐露していたジンさん。これって珍しくない…?あんまりなかったよね…?と読みながらやや戸惑い、なんとなく、ライブのときの表情がフラッシュバックして、ぐるぐると考えた。彼のなかで一体どういう変化があったのだろう。答えがないと分かっていても、考えずにはいられなかった。

 

からの、突然の新曲「Abyss」。直訳すると、深淵。

 

youtu.be

びっくりした。いろんな意味で。とにかくびっくりした。

だって「深淵」というタイトルが、あまりにも直球だったから。深淵とは、のぞきこむもの。奥深く、底知れないもの。そこから感情をすくいとってきて、目の前で広げてもらったような、「こんなに思い切り覗き込んでもいいの?」と聞いてしまいたくなるような楽曲だった。日付が変わろうかというタイミングで、一気に緊張した。ほんとは「はじめてのセンイル!キムソクジン、センイルチュッカヘ〜!」というテンションでブログを書き切るつもりでいたのだけど。まったくもって無になるという。

 

曲を聴きながら、翻訳していただいた歌詞を読んだ。

海を漂ってもがいて、届きたいのに届かなくてもどかしい、という切なさが、メロディにも歌詞にも滲んでいるような気がした。何度も繰り返し聴いて、でもなんといったらいいのか、どうやって感想にまとめたらいいのか全然わからなくて、これは一気に咀嚼するのはむりかもな、と思った。でも考えたかったし、何を伝えようとしてくれたのかを感じたかった。こんな気持ちになるなんて、と、戸惑いつつも嬉しくもあった。冒頭に書いたように、すきな人の作品から影響を受けることは、この上ない幸せだと思うから。

 

btsblog.ibighit.com

 

楽曲とともに公開されたこのブログも、かなり赤裸々な言葉で語られていた。読んで苦しくなったけれど、同時に「この先知ることはないのかも」と思っていた感情を共有してくれたことに感謝した。…感謝、でいいのかな。喜んでしまっていいのだろうか。それすらちょっと迷ってしまったけれど、でも1日経って、いいのだと思うことにした。彼の言葉に導かれるようにして、とにかく聴こうと決めた。

 

これまで、「自分の悲しい感情をファンの皆に共有したくない。良いものだけをお見せしたい」と思ってきたというジンさんも、今回、自分の中にある不安や戸惑いを音楽に込めて届けてくれたジンさんも、両方全力で受け止めたいし、大きな愛で返したい。こういう姿を見せてくれることがどんなに救いになってるか、できることなら伝えたい。いろんなものを背負い、視線を浴び、議論の的となり、注目され続ける人生を歩む彼らが、それでも変わらず、いつもファンと目線をあわせて、寄り添って、言葉を投げかけ続けてくれることが、どんなに癒やしとなっているか。「今年、あなたたちの存在に気づけたことが本当に大きかったんだよ」と、何度言っても足りないくらいだ。

 

= = =

 

ここで締めようと思ったけど、もう一つだけ。

 

どうにも説明つかない感覚がある。それは、世界中に何百万、何千万というファンがいるBTSのJINさんと、自分が考えたり思ったりしているジンさんが、微妙に一致しないという感覚。なぜだか分からないけれど、一対一で向き合っている、という感覚がある。オタク用語で言う、いわゆる“同担拒否”とか“独占欲”とか、そういうものでは一切なく、パーソナルなキムソクジンを見つめているという感じ…とでも言おうか。グローバルなスケールで活躍するBTSのメンバー・JINでありながら、ふしぎなくらい近くて、“親密さ”を持ち合わせている気がする。彼に限らずほかのメンバーも同様に。

 

これを、単にKPOPの戦略の一つとして説明することもできると思う。たとえばSNSやV LIVEで距離感の近さをアピールし、一方ではクオリティの高いパフォーマンスや作品で圧倒的なプロフェッショナリズムを打ち出してくる。その両輪が、BTSに限らず、KPOPアイドルの大きな魅力であることは間違いないと思うし、実際に自分も惹かれた部分だ。ただ、そういう戦略云々の話だけでは語れない距離感というのも、ファンになってみて感じることが多々ある。それがすごく面白い。

ジンさんが「楽しい姿だけを見せたい」という理由は、「自分が悲しんでいる姿を見せることで、ファンも共感して悲しんでしまうと知ったから」らしい。心理的な距離感、つながり、共感、共鳴。アイドルとファン、という関係性はもちろんあるにせよ、これまで自分が経験してきたそれとも違うと感じるのは、双方向の感情の行き来があるからなんだろうなと、最近実感し始めている。というかもはや、共同体だな、と思う。共同体という言葉を掘り下げようとすると長くなるからしないけれど、「BE」から受け取ったメッセージなんかも、そう思わせてくれるようなものだった。深い結び付きが、ばんたんとARMYにはあるよな、と。そして、ジンさんの感情表現の変化や、楽曲にこめた思いを本人から聞くことができた、今回の一連のできごとからも、そうした結びつきを意識する機会になったと思う。

 

長々と書いてしまったけれど、これは誕生日ブログなんでした。そうでした。

 

もし、ファンに感情を伝えることで少しでもラクになるのなら、その役目はいつでも果たしますよ、という気持ちだ。伝えたいと思ったときに、伝えてほしい。ファンが愛情を伝えたいと思ったときに、いつもそこにいてくれるように、彼が何かを伝えたいと思ったときに受け取れたら、きっとそれは、健康で幸せな関係性なのではないかな。そうあれたらいいな。

 

きょうもあしたも、その先も、ぐっすり眠れますように。

愛を込めて。

 

「Life Goes On」を聴きながら

息つく暇もないような一週間が終わった。今に始まったことではないけれど、この慌ただしさには一向に慣れる気配がない。このままでいいのか、いいわけないよなぁ…と毎日ぐるぐるしながら、でも目の前のタスクは効率よく捌かなきゃいけない。成長とか目標とか、どうやったって今は気乗りがしない。頑張らないといけないのか?この状況で?ずっと足踏みをしたまま、時間だけが過ぎていく感覚。余裕がないと感情もうまく出せないんだなぁ、と実感することが多いここ最近だった。

 

そんな日々のなかで、BTSのニューアルバム「BE」がリリースされた。さっきようやく一通り聴いて、この作品を待っていて良かった、受け取れる自分で良かったなと心から思った。

 

youtu.be

 

リード曲「Life Goes On」のMVで、まずはメロディだけ聴いてみた。穏やかでやさしくて、ひたすらに心地よい。後半、自然と涙が出た。

 

アルバムを通してのテーマでもあるという、「Life Goes On」=「人生は続いていく」。世界が危機に直面し、ほぼ例外なく、皆が同じ恐怖や不安を抱えるなかで発されるこのメッセージの意味深さを思うと、とても言葉にはし尽くせない。

人生は続いていく。単純な人生讃歌ではなく、むしろ今を冷静に見つめた、地に足のついた曲であると思った。冒頭の歌詞なんかは特に。時間はもとに戻せず、ひとは進むことしかできない。誰もが平等で避けようのないこと。「人生」というと壮大なようでいて、でも結局は一日一日の積み重ねでしかなく、その一日をどう過ごすかは今までやってきたことと何ら変わらないんだよな、という気づき。そうした事実を受け止めて、自分の中にどうやって落とし込もうか。きっと、この状況下でたくさんの人が考え悩んでいることだろうし、私もその一人。

BTSが発する「Life Goes On」が、現実的であっても前向きな響きを帯びるのは、そうした多くの人々の気持ちを深いところで代弁してくれているからなのかな。共感というと簡単だけれど、2020年の今を共有している“私たち”。そこにはBTSの7人も、ファン(ARMY)も、世界中の聴き手も等しく含まれている。そう思うとなんだか心強いし、彼らをこんなに近くに感じられるアルバムは後にも先にも無いのかもしれない。今だからこその作品を、リアルタイムで受け取れること。すごい作品のリリースに立ち会ったのだな、と改めて思う。

 

そしてやはり思うのは、今まで彼らが繰り返し発してきた「Love myself」のメッセージとも確実にリンクしている、ということ。人生を前に進ませていくためには、どうしたって自分と向き合わなければならない。簡単な作業ではないし、ある意味一生つづくことでもある。そこまで考え込まなくても、もちろん何事もなく時間は流れていくけれど、少しでも自分自身を肯定できたなら、一生つきあっていくこの誰でもない“自分”をラクにできるのでは。もっと心地よく過ごせるのでは。ささやかでも、希望を持って生きていけるのでは。今回の「Life Goes On」のコンセプトが、「Love myself」のメッセージ性をより一層強めているようで、彼らのクリエイティブにおける一貫性に唸った。

 

最後の「I remember」もとてもグッときた。覚えているよ、忘れないよ、忘れずにいよう。寄り添う言葉だな、と思う。2020年が困難を極めた一年だったことは疑いようがなく、悲しみや苦しみが、年を越すことで消えるわけでは決してない。忘れたいこともあれば、忘れたくないことだってたくさんある。この言葉には、渦巻く感情をひっくるめて、「大丈夫だよ」と言ってくれているような、あたたかな温度がある気がする。

自然体な姿から一転して、ステージ衣装を着た7人が「I remember」と歌う姿からは、アイドルとして、アーティストとして、ステージで表現することを1日たりとも忘れた日はないんだよという思い、矜持みたいなものも感じた。楽しそうに無邪気に笑い合う姿も、ステージでまぶしいくらい輝く姿も、どちらも同じくらい大好きな7人の姿だ。

 

1曲目を聴いてまずは思ったことを書き出してみた。繰り返し聴くことで、どんどん違う解釈も生まれそうだし、他の曲ともあわせて、もっと感じることもある気がする。こういうことができるから、アルバムって楽しいよね。

 

本当は下書きに控えているテキストがもう一つあるけれど、こちらは年内に表に出せたらいいな、という感じ。BEを流しながらまとめることにしよう。

 

それでは、良い週末を。