inmylife

みたもの記録

書くとか、書かないとか

書くことが楽しいって何だろう、という話。

 

一つ前の、Butterの感想を打ち消すようであれだけど。

徹夜の作業に取り掛かる前に、ちょっと吐き出す。

あとで消すかもしれない。

 

好きなことならいくらでも書ける、と言いたい人生だった。

残念ながらそういうタイプではない。筆は限りなく遅く、勢いよくスタートを切ったかと思えば1日では仕上がらず、翌日まで持ち越すとたいていお蔵入りになる。実際このブログでも3000字とか5000字とか書いておきながら、公開をあきらめた文章がいくつもある。

 

なんでこうなのか。でも、これがブログならまだいいのだ。自己満足だから。どう書いたって、書かなくたって、誰かに責められるものではないから。

 

ただ、当然ながら仕事だとそういうわけにはいかない。

いわゆる物書き、ライターではないし、テンプレがあるっちゃあるし、文字数だってたかが知れている。

これで書けない、なんて言ってたらどうすんだと思いつつ、でもやっぱりダメなものはダメで。多分、スランプとかそんなものでもない。書けないのは昔からだから。慢性的に書けないから、「ライターズブロック」(最近知った)でもないのは明白。すごく自分が惨めに思えてくる。

 

思えば、「書けない」ことと向き合い続け、苦しみながらやってきた社会人生活だった。新卒一年目、「なんでこんな文になるんだ?」「なんでもっと早く書けないんだ」と言われ続け、トイレで泣くしかなかった日々。書くことに対して少しばかりあった自信は消え去り、早々に辞めたくなった。あのとき、上司の前で泣けば良かったのかも知れないが、無駄にあったプライドのせいで、とにかく堪えた。

今ふと、堪えグセがついたのはこのときか、と思ったが、小学生くらいからそうだったから、そういう性分なのかもしれない。我慢強いといえば長所に聞こえるが、あまり自分のためにはなってない気がする。

 

上司が変わっての2年目。相変わらず、パソコンを前にして頭が真っ白になる日々が続いた。もっと誰かにアドバイスを求めたり、正直に「書けないです」と申告すれば良かったものの、自分ですら「何が」書けないのか、「なぜ」書けないのか、よく分かっていなかった。だから、どうやって相談すればいいのかすら分からなかった。上司にはどう見えていたんだろう。その頃になると、書き上げた記事に赤が入ることは少なくなっていて、「自分のタイミングで提出していいから」とも言われていた。単にチェックがゆるかったのかもしれない。おかげで緊張からは解放されたものの、もやもやからは逃れられなかった。

 

そのときの感覚をなんとなく覚えている。夢のなかで走るような感覚。前に進みたいのに進めず、足に何かがまとわりついているような鈍さ。夜9時、10時になって、皆が帰って行くのを横目に見ながら、「今日も1本しか上げられなかった…」と、よく落ち込んだ。当時の上司は責めるようなことはしない人だったから、ありがたかったけれど、出来ない事実には変わりなかった。

 

いつ、どうやって気づいたんだったか、文章の型をつくるようになってからだいぶ楽にはなった。書き出しや構成なんかは媒体の基本スタイルがあり、頭を使わなくともそれなりに書けるようにはなった。その実感が出てきたのは、4年、5年目くらいだったかと思う。だいぶ遠回りをした。

 

そんな歩みを経てきたからか、「書くのが楽しい」とはどういうことなのか、ずっと考え続けている。先輩に、「文章書くの楽しいですか?」といきなり聞いたこともある。もちろん楽しい、ずっと書いていたい、という答えが返ってきて、驚き、あいまいな相槌しか打てなかった記憶がある。

自分の場合、書くのが楽しいと思ったことはほぼなく、他の人たちがどういう感覚なのかが気になっている。これまで、書いて良かった、という経験は何度かあるものの、楽しいという感情や、もっと書きたいという感情にはつながらなかった。それはそれで仕事として割り切れているから良いとも言えるが、できるなら苦しさは解消したい。プラスの感情とまではいかなくても、プラマイゼロくらいにはなりたい。先輩が言っていたような感情がどこからやってくるのか知りたい。自分の中にもあるのだろうか。つくり出せるんだろうか。

 

今や、ブログやSNSで誰でも何でも発信できる時代。ネット上では常に何かしらのまとまった文章を目にするし、感想、体験談、プレゼン、主張や考え方を綴ったものなど、内容も幅が広い。

「オタクは文章がうまい」という説もよく見かける。確かにそうかもしれない。好きの感情が溢れ、勢いがすごい文章はそれだけで読み応えがある。自分にはなかなか書けないからこそ、いいな、うらやましいな、と思う。きっと、そういう文章を書いて出せる人は、それ自体が楽しいんだろう。楽しんで書いてるのが想像できる。伝わってくる。自分も、「これはぜひ書きたい!」という気持ちが湧き上がることはあるにはあるけれど、頭の中で浮かんできた言葉たちをアウトプットするだけの筆力、というか、胆力がない。もっとテクニカルな部分の問題という気もするし、今まで独学でやってきたんだから、一度ちゃんとした講座なり、指導を受けようかと思ったこともあるけれど、じゃあ果たして、書くことで生計を立てたいのか?と自問自答し、何度も足踏みをして今に至る。こんなんじゃ一生足踏みだ。

 

好きなことを好きなように書く、楽しんで書く。ただそれができればいい。今の自分はそれがしたい。プロの物書きではなく、ただの会社員なのだから、趣味で好きなことを書けばいい。自分が満足すればいい。でも、それすらできなくてもどかしい。なんでだろう。仕事に追い込まれているからなのか、生活が落ち着かないからなのか、疲れているからなのか。どれも当てはまるとは思う。だけどこのままでいいのか。書くことがつらいまま、この先も生きていくのか。

 

ひとつ、最近気づいたことがある。書くことは相変わらずつらくて苦しいけれど、文章を構成している言葉そのものには興味がある。言葉ってなんなのか。日本語、外国語、文法の仕組み、方言。今まであまりなかった、言葉を知りたいという欲が出てきた。韓国語を知って、習うようになったことが一つのきっかけであることは間違いない。

この感覚が、突破口になるだろうか。文章と、言葉と、もっと近づくことができるだろうか。

 

ここまで書いたところで、仕事をしてこよう…夜は長い。