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みたもの記録

【舞台】二月大歌舞伎・第一部「泥棒と若殿」

「こんなに繊細でやさしい歌舞伎があるのか」と思った。これからも時々、ふと思い出しては噛みしめるような気がする。それくらい染みてくる物語だった。

 

山本周五郎原作「泥棒と若殿」は、1968年初演とのこと。以前上演されたときは、十代目坂東三津五郎さんが若殿役、四代目尾上松緑さんが泥棒役で、今回は息子の巳之助さんが若殿を演じ、松緑さんと共演するという、期待値が上がらないわけがない組み合わせ。発表時に歌舞伎ファンの皆さんがよろこびの声を上げていたのも頷ける。

 

物語は、お家騒動に巻き込まれ、3年ものあいだ幽閉されている若殿・松平成信と、偶然その屋敷に入り込んだ泥棒・伝九郎との交流を描いたもの。立場の違う2人による、感覚や会話のすれ違いの面白さだったり、まるで夫婦のような掛け合いが微笑ましかったり。いつしか「のぶさん」「でんく」と言い合うほど関係性が深まっていく過程がなんともいとおしくて、ずっと2人の会話を聞いていたい!と思った。(でんく、って響きかわいいな…と何度も思ってた)

前半はコミカルな場面も多くて、とくに松緑さん演じる泥棒のドタバタっぷりにはこらえきれず、静かな歌舞伎座にも何度か笑い声が漏れていた。登場して早々「これは根っからの泥棒ではないな」と誰もが気づくような、憎めないかわいいキャラクター。みんなで見守っているような感じだった。歌舞伎のこういう温かい雰囲気には癒やされるなぁとつくづく思う。

 

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冒頭で「繊細でやさしい」と書いたけれど、具体的にどこでそう思ったか。という話を思い出しながら少ししてみる。セリフはあいまいなので、ご容赦ください。あと、結末まで触れています。

 

一つ目は、伝九郎が自身の恵まれない身の上を語る場面。早くから奉公に出て苦労し、実父は酒浸りで荒くれ者、のちに結婚する妻も博打打ち(実は、本当の夫は別にいた)だったり…とにかく散々な目に遭ってきたという伝九郎。それを聞いた若殿・成信は、「大変だったな。でもお前をそうやって苦しめてきた人たちも、実は今頃、世間の片隅で寂しく生きてるんじゃないか。そう思うと同じ人間だなと思わないか?」というようなことを言う。さすが俗世に疎いというか、寛大すぎるというか、「そこまでは思えないでしょう…!」と心のなかで思わず突っ込んでいると、伝九郎がすかさず、「馬鹿言っちゃいけねえや!そういう経験をした本人しか分からない(言えない)ことがあるんだ」と返す。成信の考えも分からなくはない。本人の出自と、それにまつわる逡巡の末に出たものだと考えると、自分に言い聞かせているようにも思える。ただ、その言葉に押されずに、自分のつらさやしんどさを言葉にして正面から向き合った伝九郎になんだか安心した。ここに2人の対等な関係性を見て、「こんな描き方もあるんだな」と感じた場面。

 

そして二つ目。これがなかなか響いた。ある日、城からの使いが成信のもとへやって来て、「お父上が亡くなったので、次の殿はあなたに決まりました」と告げる。でも、伝九郎との共同生活がすっかり気に入っていた成信は、「私はもう庶民として生きていく。ほっといてくれ」と突き放す。そのあと夕飯を食べながら、「一緒にどこかへ行こうか」と言われた伝九郎は、こんなふうに答える。「いや、急ぐことじゃねえよ。のぶさんが健康になってからにしよう。まだ調子が良くないように見えるんだ。(体じゃなくて)心が弱っちまってる気がする。だから今はゆっくり休めばいいさ」………す、すごい。こんなセリフを歌舞伎で聞くことになるとは…と、驚いた。これも新作歌舞伎ゆえなのか。山本周五郎の作風による味わいなのか。それにしても伝九郎はすごい。どんくさい登場シーンからは一転して、実はかなり思慮深く、他人の痛みに気づき、引き受けられる人だった。泥棒どころか、悟りをひらいた僧侶なのでは。これまでしてきた辛い経験があるからこそ、痛みや苦しみにも寄り添えるのかもしれない。伝九郎にこういうセリフを言わせるのも、良い具合に染みるポイントな気がする。

 

伝九郎のセリフばかり語ってしまったけれど、成信の佇まいや言葉も、話が進むほどに元々の「若殿」としての毅然とした姿が滲んでくるのが良かった。演じる巳之助さんの凛とした雰囲気にもぴたりとハマっていた。これがいわゆる、“ニン”というやつなんでしょうか。それを言ったら、もちろん松緑さんの泥棒も。前に見た「あんまと泥棒」の役を思い出したけど、振り幅や奥行きとしては「名月八幡祭」の新助もよぎった。あれはトラウマというと大げさだけど、忘れがたい作品…。

 

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そしてクライマックス。成信は家督を継ぐ決心をする。家臣たちの思いを知って、(ここの説得の言葉も力が入っていてとても良かった…!)「自分の責任を果たそう」と言う。この、生まれながらの責任、それぞれの役割という表現。捉え方によっては残酷だけど、物語における成信の「殿」という立場と、対する伝九郎の「庶民」という立場をハッキリさせる意味では大事なんだろうな。普通ならあり得ない2人がともに時間を過ごして、心を許せる友になれたからこそ、“本来いるべき場所に戻る”という決断の重さを一層濃くしている気がする。ほんとうならずっと一緒にいたかっただろうに。このへんからどんどん切なくなる。

 

別れの朝がやってくる。成信は正装(殿の格好)をして、何事もないように朝食の支度をする。あれ、殿って料理できるっけ…?と思っていたら、耳元でイヤホンガイドが「伝九郎の姿を見て、炊事の仕方を覚えたようです」と。なんてこと…泣かせにきている……。こういうときのイヤホンガイドの一言は絶妙だなと思う。その後、伝九郎が一瞬離れたときを見計らい、立ち去ろうとする成信。それを見つけて、「のぶさん!!!」と声をかける伝九郎。確かここで、さっきの「責任」という言葉を話すんだったかな。涙をこらえながらも、振り返らずに去っていく後ろ姿が印象的だった。残される伝九郎…松緑さんの表情がたまらなくて、涙で光っていて、舞台が奥にまわっていく間もずっと目で追ってしまった。

 

この時点でだいぶセンチメンタルになってるのに、まだ最後畳み掛ける。一つ前の場面で伝九郎は「一緒に暮らすんじゃなかったのか?」「2人でならずっと楽しくやれると思ってたのに」と悲しげに問いかけるけど、外で待つ家臣たちを見て、「待ってる人たちがこんなにいるんだもんな」と気持ちを固め、行くべき場所がある成信に手を振って見送る。ここではじめて言葉を飲み込むのも、余計に切なさが増すんだろうな。

 

最後に成信が残す「また会おう」という言葉。再会はきっと難しいとわかっているだろうけれど、別々の道で成すべきことを成した暁には、互いの存在を心の中で感じられる瞬間がくるかもしれない。またいつか。2人の別れを演出する桜が儚い。

 

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こんなに自然と泣けた歌舞伎の演目は、はじめてかもしれない。これまでも感動したり悲しかったり、泣けたものはあったけれど、ここまで物語に入り込んだのはあまりなかった。それだけ、松緑さんと巳之助さんが演じる泥棒と若殿に魅せられて、引き込まれたんだと思う。

 

先日の紀尾井町家話でのトークを聞いて、この演目にかける想いや、松緑さんの三津五郎さんとの思い出、そして巳之助さんに向けるまなざしのあたたかさ、大きな期待。そういうものをひしひしと感じて、素敵な関係性だなと思った。そんな2人による「泥棒と若殿」、本当にすばらしかった。これからもぜひ続けていただいて、多くの人に見ていただきたいなと思う。家話で語っていた演目での共演も大いに期待しつつ。