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みたもの記録

ミュージカル「フランケンシュタイン」〜Act2・真ん中の2人の話

1月30日(木)11:40、日比谷駅到着。今月何度目かのA13階段を上がって、目の前の日生劇場へ。開演前のこういう一連の流れ、妙に覚えてたりするんだよな。冬の日生劇場。人によっては全く違う演目を思い浮かべるんだろうけれど、私のなかでは完全に「=フランケンシュタイン」になった。

 

ちょっとだけ自分のはなしを。

もう、すっ飛ばしていただいて構いません……ただ書きたいだけなので…

 

東京公演千秋楽。幕が上がった当初は、正直行くとは思ってなかった。「同じ公演は多くて3回まで」というルールを課した去年は、結果的にいろんな作品を観る余裕がうまれ、いいかたちで一年終わることができた。今までの偏りを反省した、その矢先だった。2020年観劇計画が狂うことになったのは。

 

1月8日、ミュージカルフランケンシュタイン開幕。

 

もちろん行くつもりで既に(個人的上限の)3公演分はチケットを押さえていたし、いずれも初見の友人たちと観る予定にしていて、相当楽しみにしていたのだけれど。「あれ、これやばいかもしれない…手持ちのチケットだけでは足りないのでは…」と発作的に思ったのが観劇2回目の1月19日。2クール目ラスト。この日に見ちゃったんだ、柿澤×小西のビクターとアンリを。ツイッターでいろいろ感想検索してみると、「かきこに  地獄」というヤバめのサジェストが出てくるくらい、一部で囁かれていた都市伝…ではなくダブルキャストのうちの1組。それ自体が特別なわけじゃないし、自分も「違う組み合わせを楽しもう!わーい!」くらいのライトな感覚で臨んだ。はずなのだが。「このかきこにペアを1回しか観れないなんて………!それはダメだ!」と謎に焦り、東京楽がこのペアだということを確認すると、翌日すぐに有休申請とチケット手配。そんな流れでした。

 

◼︎同じ熱量でぶつかり合う面白さ

ここからやっと本編のはなしをします。いや、本編というのかなこれ。前述したように、ビクター役の柿澤さん、アンリ役の小西さん、この2人のことを界隈では「かきこに」と呼んでいることに倣い、新参者のフランケンゾンビこと私もそう呼ばせてもらいます。かきこに。良い響き。

 

振り返ってみて、私が「かきこに」ペアのどういうところにハマったのかというと、ビクターとアンリという2人の根底に、対等な関係性を見出だせた組み合わせだったからだと、個人的には思っている。柿澤ビクターと小西アンリは同じ熱量、同じベクトルで互いにぶつかり合って、削り合って、いのちを燃やしていたように見えた。それを1幕という限られたなかで、【出会い〜対立〜もっと知りたい期〜親密期〜突然の危機〜(主にアンリの)感情がスパーク〜ビクター葛藤〜終わりの始まり】と、ギュッと凝縮させるんだからすごい。めまぐるしいにもほどがある。

対立から信頼へ、信頼から愛情へ。刻一刻と変化させながら、最後にアンリは思いっきりビクターのこころとからだを自分からドーーーンと突き放し、だけど(自分不在の)未来はしっかり託し、これ以上ないというくらい潔く散る。前回記事でも触れたけれど、加藤和樹アンリは、私が見た回では雑念なく晴れやかに散ってゆき、小西アンリは逆に、生への執着を最期まで抱き続けながら、それを振り切るように散る。ダブルキャストで、ここまで見え方が変わるのか、とふるえた記憶。

 

そんな荒波展開のなかで描かれる、互いに影響し合い、認め合い、あるいは引き寄せ合ってそこに立つ2人。劇中ではビクターがアンリのことを、「仕事上のパートナー」と紹介するけれど(このときのアンリの表情が絶品)、物語が進むにつれて、明らかに「パートナー」という言葉に込められた意味が複数あることを気づかされる。あなたたち、ただのパートナーではないよね、と。1幕後半、どうしたって互いの存在が無くてはならない心理状態に陥ってるし、一方が欠けたら何が起きるんだろう………(それを描くのが2幕)と不安にすらなる。絶対、この2人の行く先に幸せはない。そんな絶望を予感してしまう1幕。暗澹たる気持ちになるものの、怒涛の展開や楽曲のパワーに飲み込まれながら、とにかく見ずにはいられない、何とも言えない吸引力が、この作品の持ち味なんだろうなと実感した。全体をまとう空気感、描かれてる現代の闇、みたいなものも勿論興味深いのだけど、やはり惹かれてしまうのは真ん中にいるビクターとアンリ、この2人の関係性の変化だった。2人の感情が1幕と2幕でぐっしゃぐしゃにシャッフルされるからこそ、一言では到底表せず、見た人の数だけ多彩な解釈にもつながってくるんだろうなと。だからこうして書いていても、着地が分からなくて悶々としてしまうわけだけども。

 

◼︎ビクターとアンリの見つめた先/北極にて

ここは何度考えてもよく分からないと先に言ってしまうけれど、北極で最後、2人だけの、2人ぼっちの戦いをする。いや、ビクターとアンリはずっと2人ぼっちだったか…それを願ってたからこそのラストなのか。

 

北極の前に歌う「♪傷」、これはどう考えても99%はアンリの人格で歌っていると思っていて。いや、歌い出しは半分くらい怪物かもしれないけど、少しずつ融解していき、怪物の奥底にあるアンリの人格が在りし日のビクターとの思い出をなぞることで、怪物としての人格?を溶かして再びアンリになる、という感じ。何言ってるかわからんな。うん。「一人の男がいた/本当は弱いくせに/神になろうとした」なんて、アンリじゃなきゃ歌えないだろう〜〜〜????お前アンリだろう?????と思ってしまう。「本当は弱いくせに」って、ビクターのこと知らなきゃそんな「かわいい相棒め」みたいなニュアンスで歌わんだろう。。。と、思ってしまったからもう、苦しい。ずるい。

 

ちょっと脱線した。

北極という最果ての地で戦う2人は思いのほか肉弾戦で、なんだかちょっと微笑ましいのだけど(?)そういう捨て身な感じ、ギリギリのところでエネルギーぶつけ合ってるのがまた、柿澤ビクターと小西アンリは絶妙に危ういバランスで成立させていて、それゆえ、やっぱりここの場面ではすでに怪物ではなくアンリなのかな、という気持ちにさせられる。途中でアンリの人格がめざめて、ただ、100:0というよりは混ざり合ってる感じ…

 

そんなわけで最後2人は相打ちとなり、でも一歩だけアンリ(もはやアンリ)が譲り、ビクターに己を撃たせ、「これが復讐だ、ビクター!」と言って事切れる。この、自分の名前を呼ばれたときのビクターの心境たるや。負傷した脚を引きずりながら、駆け寄ってやさしく髪を寄せ、怪物(と思って対峙したはずの)顔にアンリを見て、ひとり慟哭する。ぱっと見、復讐を果たした怪物と、復讐されたビクターという構図なのだけど、そもそも怪物を奥底で動かしていたのはアンリの人格かもしれず。でもそれだと、1幕の彼はどこへ……?となるし。無限の解釈ができてしまう。

すごく雑だけど、なんとか着地をするならば、「新たな世界 描く君の夢の中で生きよう」(♪君の夢の中で)をやり遂げたのかな、アンリは…とも思う。やり遂げたというか、すべてをここで終わらせた。怪物による、“自分をつくりだした創造主に対する単なる復讐”ではなく、怪物の中にあるアンリとしての、愛ゆえの最後。自らの手でビクターを止め、生命創造を2人だけの夢として封印し、北極という地で心中することで2人は永遠となっ………………………

 

 

 

いや感情がデカいな

 

 

こういうデカい感情と感情のぶつかり合い、概念云々、という話に持っていってしまうとどうしても浅くなってしまう気がするのだけど、うーーーーん、フランケンではそれも一興か、となって、また沼でちゃぷちゃぷする…その繰り返しである。賛否はあるのかもしれないけれど私はそれにハマってしまった。

なんか、うまい例えではないけれど、受験のときの現代文を解いてるみたいな感覚だな、と。フランケンシュタインは文章読解。こんな一つの作品で頭ひねることある?ってくらいぐるぐる考えてしまっている。あの2人は何を目指し、何を感じて、何を思い浮かべながら最期を迎えたのか。終わりがない。

 

 

こういう話と同じくらい、キャストのここが良かった!好きだった!最高オブ最高!みたいな、別次元でキャッキャ楽しんでる自分もいるんだよなぁ。柿澤ビクター、すごく好きだった。孤独なんだろうけど、溢れ出る愛され感。「坊ちゃん!坊ちゃん!」となってしまうルンゲの気持ちもよく分かる。あんなに魅力的に疾走する様を見せられたら、アンリが“恋”に落ちるのも無理はない、と思ってしまう。そして小西アンリがまた、柿澤ビクターの熱に(水面下で、確実に)心を動かされている様が本当に本当にうまくて、繊細で、でも強くて、憂いがあって…素晴らしかった。感情の動きに説得力があった。そのあたりの表現がピタリとハマる2人だったからこそ、ここまでグッときたんだろうな。良いものを見せてくれてありがとうと言いたい。

 

 

前回の記事以上に何が言いたいのか分からなくなってしまったけれど、ひとまず終わります。

このあと名古屋、大阪とつづくであろう熱狂を見届けたい。こんなにも楽しませてくれたフランケンシュタインという作品そのもの、そしてキャスト・スタッフへの感謝を込めて。

 

 

おしまい。